村野藤吾の傑作・広島「世界平和記念聖堂」。洋の東西も時代も超えた聖なる美の建築

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自らも被爆した神父の、強い想いから発した聖堂建設への道


カトリック広島司教区の幟町教会は、原爆の爆心地から直線距離にして1キロ強しか離れていない。1945年8月6日午前8時15分、この場所には4人の神父と、伝道師や神学生、保母たちなどがいた。司祭館は関東大震災後の上智大学再建のために招聘されたイグナチオ・グロッパー修道士が設計したもので、木造ながら爆風に耐え、全員が奇跡的に助かった。しかしその後に巻き起こった火災が、あたり一帯を焼き尽くしてしまう。

当時の主任司祭フーゴ・ラサール神父は、被爆で大けがを負ったにもかかわらず、同年12月20日、周囲の反対を押し切って、郊外の避難先から教会に舞い戻る。同伴者はフーベルト・チースリク神父のみ。2人の神父はトタン板でつくった3畳ほどのバラックを聖堂兼住居とし、そこで被爆後初めてのクリスマスミサを執り行った。チースリク神父の回想によれば、ラサール神父はこの頃から早くも、聖堂再建を目指して奔走していたという。翌1946年にはローマで当時の教皇ピオ12世に謁見し、聖堂建設への祝福を授かった。

「世界平和記念聖堂」が一応の完成を見るまでには、それから8年の歳月が必要だった。


カトリック幟町教会のヴィタリ・ドメニコ神父(左)。「教会は祈りの場としてこそ大事なもの。建築に関心を持って訪れてくださる方にも、ひととき平和への祈りを捧げていただきたい」と語る。右は事務局の飯國清さん。銅像は1981年に来日した教皇ヨハネ・パウロ2世。「ヒロシマを考えることは平和に対して責任をとることです」という言葉が刻まれている



物議をかもした“1等なし”の設計競技、外観デザインはやり直しの連続


「世界平和記念聖堂」の設計案ははじめ、1948年4月6日付けの朝日新聞紙上で公募され、6月10日に締め切られた。募集規定には「モダン、日本的、宗教的、記念的という要求を調和させる事」とある。応募は日本人に限定された。

177点の応募から、しかし1等は選出されなかった。カトリック広島司教区本部事務局の飯國清さんは「特に“日本的”“宗教的”という要求にかなう案がなかったと聞きます」と語る。「日本を愛し、同じ年に帰化もしているラサール神父の意見だったのでは」。結局、ラサール神父の頼みで審査員の1人だった村野藤吾が設計することになる。この経緯は当時、建築界で批判の的となった。

そのうえ、村野が描いた設計案も、なかなか神父たちに受け入れられなかった。「建築雑誌」1956年6月号に掲載された「聖堂の建築」で、村野自身が回想している。「日本に来ている神父さん達の建築観は私の様な日本の建築家に対し少し厳し過ぎるのではないかと思った。いくつかのスケッチを見せたが、プランは、ほめられたけれど外観はどれも駄目だったので、最後はやめる決心で持っていったのが大体今の様な形である」


世界平和記念聖堂、正面外観(以下の写真提供:宗教法人カトリック広島司教区)



古今和洋が混在する造形に、手造りの味わいを歳月が深める独特の質感


柱と梁を露出させ、間を土壁で埋める日本の伝統工法を「真壁」というが、世界平和記念聖堂の外観はまさに「真壁」風である。

京都工芸繊維大学助教の笠原一人さんは、次のように解説する。

「鉄筋コンクリート打ち放しの柱と梁そのものはモダンですが、間をブロックで埋める真壁風のつくりは日本的。窓の造形も日本の伝統文様“洲浜”を思わせます。これに対し、内部は聖堂の古典形式を踏まえた“バシリカ式”で、中世ヨーロッパの様式“ロマネスク”風の空間になっている。場所も時代も超えた多様な要素を自由自在に混ぜ合わせた結果、見たこともない独創的な造形が生まれた。村野藤吾ならではの建築だと思います」

建設費は国内外の寄付や募金で賄われたが、1950年に勃発した朝鮮戦争の影響で物価が高騰し、工事は中断することもあった。村野は前出の「聖堂の建築」の中で「だから煉瓦でも、人造石ブロックでも出来るものは大体外注しないで現場で造った。(中略)それ丈けに出来上りは何とも云えない位、手造りの味と親しみがある様に思う」と書いている。

一方で、職人たちの仕事が丁寧過ぎるとぼやいてもいる。「荒っぽくやってくれと頼んでもなかなか聴いて貰えないのには弱ったが、別段悪いことをされるのではないからそれを荒っぽく善い仕事に導くのには骨が折れた。(中略)人造ブロックの叩きが細かいと云って文句をつけたりしたが、あとでは漸く私の意図が飲み込めたと見えて、荒さ加減も良くなったので此の建物は、ところによって出来不出来がある」。そしてこう結ぶ。「而し、十年も経てば何ともなくなると思う。」

広島の土でつくられた灰色の煉瓦は、外壁に模様を描くようにところどころ突き出ており、そこだけほかより強く雨風を受けて濃く変色している。近付いて見ると目地も垂れ下がっていたり削られていたりして、積んだ人の手の跡を感じさせる。「土地に根ざした材料を使い、手づくりの味わいを大事にするのも村野流」と前出の笠原さんは言う。

1950年の起工式から約4年かけて「世界平和記念聖堂」は竣工し、1954年の8月6日に献堂式が挙行された。しかしこのときはまだ大聖堂正面のモザイク壁画もステンドグラスもなく、祭壇には十字架が祀られていた。


聖堂内部。“身廊”の両側に列柱で仕切られた“側廊”を持ち、その上の高窓から採光するバシリカ式の聖堂形式。正面がモザイク壁画「再臨のキリスト」



聖堂を飾る各国からの寄贈品にも、それぞれの物語


「世界平和記念聖堂」はドイツをはじめ各国から寄せられた寄贈品で彩られている。「平和の鐘」はドイツのホフメル・フェライン社製、パイプオルガンはケルン市から、本祭壇はベルギーから贈られたものだ。前出の飯國さんは「寄贈品に刻まれた言葉にも注目してほしい」と語る。例えば、デュッセルドルフ市から贈られた正面玄関の扉には、日本語で「平和への門は隣人愛である、広島市へ」と刻まれている。

1956年には聖堂正面の欄間型格子に、カトリックの教え「七つの秘跡」を表す彫刻がはめ込まれる。さらに、モザイク壁画とステンドグラスが完成し「聖堂完工感謝荘厳ミサ」が行われたのは1962年のこと。「献堂式」からさらに8年が経っていた。

モザイク壁画は「再臨のキリスト」を描いており、壁面を斜めに貫く金色の帯は、天上から降り注ぐ神の光を表している。聖堂1階左右のステンドグラスは、ドイツやポルトガル、メキシコほか“聖母巡礼地(聖母マリアが出現したとされる場所)”各地から贈られたもので、「ロザリオの祈り」の聖書の場面が描かれている。

高窓のステンドグラスについては、オーストリアからの寄贈という以外、詳細が分からなくなっていたが、4年前にオーストリア大使館から連絡があり、制作経緯が判明した。「ヨーゼフ・ミクルという人の作品で、公募で選ばれ、シラーバッハ修道院のガラス工房で製作されたそうです。公募段階から抽象的な図柄が要求されており、赤と黄は“キリストの愛”を、青は“永遠の平和”を表現しています」(飯國さん)

日本製のユニークな装飾は、なんといっても屋根の上の鳳凰像だろう。原爆の死と灰の中からよみがえった広島を象徴する不死鳥、フェニックスを表すという。再び村野の言葉を引こう。「正祭壇上のドームは最初の設計にはなかったのが寄付者の希望でつけることになったものである。此の形も私は少し気になるが、寄付が貰えるので無理につけることにした。ドームの頂上には宇治のホーオー堂のホーオーをつけた。これも現場の手造りである。」(「聖堂の建築」)

原文では「ホーオー」に傍点が振ってある。村野は軽妙に書いているが、造った現場は苦労したようだ。宇治平等院で鳳凰の写真を撮ったり、土佐の闘鶏を見学に行ったりした。それでも足りず、製作現場ではモデルに軍鶏を飼ったという。「戦後の貧しい時代のこと。役目を終えた軍鶏を食料にしたかったけれど、殺生するわけにもいかず逃がしたそうです」と飯國さんが秘話を語ってくれた。鳳凰像は1985年に取り替えられ、今あるのは2代目だ。


上左/聖堂の正面欄間の中央にはめこまれた彫刻は「七つの秘跡」のひとつ「叙階の秘跡」を表す 上右/ドーム上の鳳凰像 下左/補修のためにステンドグラスを取り外す作業 下右/工事中の堂内。ステンドグラスがなく、竣工時の様子を偲ばせる



村野建築における聖堂の完成形であり、原点ともなった作品


村野は戦前にも教会を設計しているが、いずれも小規模で「村野の創造性が十分に発揮されているとはいえない」と笠原さんは言う。「この世界平和記念聖堂が、村野にとって一つの完成形でしょう。コンクリートの真壁や、蓮の葉のような小聖堂のデザインは、その後の村野建築にも繰り返し現れています」

1980年になって、村野藤吾はラサール神父によって洗礼を受け、キリスト教に入信している。一方、ラサール神父はキリスト教と同時に禅の実践と指導に取り組んだことでも知られる。洋の東西を超えて高い精神性を示す聖堂は、この2人の出会いなくしては生まれえなかっただろう。

「世界平和記念聖堂」は2006年、丹下健三の「広島平和記念資料館(本館)」とともに、戦後の建物として初めて国の重要文化財に指定された。これを受けて現在、耐震補強と保存修理の改修工事が進行中だ。飯國さんは、「2018年のクリスマスまでには完成してほしい」と語る。総事業費は10億円を予定。うち4億円を募金で補填することを目標に、広く支援を募っている。詳しくは、カトリック広島司教区のホームページを参照されたい。

取材協力 
カトリック広島司教区 http://hiroshima.catholic.jp/


鐘塔の下部にある小聖堂の外観。丸く張り出した部分は蓮の葉のような平面形を持っており、のちの村野建築にも類似のデザインが見られる。花びらのような屋根のすぐ上にはラテン語で聖堂に込められた祈り「聖堂記」が刻まれている。鐘塔の反対側の壁には日本語の「聖堂記」がある



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