村野藤吾「宇部市渡辺翁記念会館」開館80周年事業の成果と意義

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村野建築の中で村野建築を俯瞰する模型展


建築家・村野藤吾が遺した優美な空間に身を置きながら、模型の数々を通して村野建築を俯瞰する……。山口県宇部市で開かれた「渡辺翁記念会館開館80周年記念事業」における一コマだ。

宇部市のシンボル「渡辺翁記念会館」は村野の戦前の代表作で、国の重要文化財に指定されている。
1937年(昭和12年)の竣工から80年を迎えた今年、地元の有志によって模型展をはじめとする記念事業が企画された。村野はこの記念会館の建設をきっかけに宇部市と深い関係を結び、市内には今も7作品が残る。

記念事業のテーマは、宇部の歴史を刻む村野建築をいかにして未来に手渡すか、というものだった。


上が渡辺翁記念会館のファサード。その2階ロビー中央に、記念会館そのものの模型が飾られた(2017年9月9日-18日)。



常に「造り手」と「受け手」の中間にいた建築家


9月16日に開催された記念講演には、記念会館竣工の年に生まれ、晩年の村野をよく知る建築評論家・長谷川堯氏が登壇。村野建築の特質について語った。特に、「村野の没後に気付いたことだが」と断りながら述べた次の内容が印象的だった。

「モダニストたちは新しい建築を都市や田園に据える行為を“創造”と捉えていたが、村野は地球環境の秩序を損なう行為ではないか、という“原罪”意識を抱えていたと思う。だからこそ、いかに建築をその場に調和させるかを一生懸命に考えたはずだ」

スライドを示しながら長谷川氏は、村野は常に「造り手」(施主)と、「受け手」(住む人・使う人・見る人など)の中間に身を置いていた、と語った。


2017年9月16日に行われた長谷川堯氏による記念講演の模様



建築が残るためには「受け手」が育たなければならない


京都工芸繊維大学教授の松隈洋氏による基調講演は、村野と宇部の関係を念頭に置きながら、広く近代建築の評価・保存を巡る現状と課題を伝えるものだった。松隈氏はモダン・ムーブメントの建築の評価や普及、保存活用を進める国際組織DOCOMOMOの日本支部代表でもある。以下は講演の抄録。

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2016年7月に東京・上野の「国立西洋美術館」を含むル・コルビュジエの建築作品群が世界文化遺産に選ばれたことは、日本の近代建築の再評価にも大きな影響を与えた。コルビュジエとは4歳違いの村野藤吾とも縁が深い。「渡辺翁記念会館」の設計で、村野がコルビュジエの『国際連盟会館コンペ案」からヒントを得たことも分かっている。

「渡辺翁記念会館」は最初「宇部市民館」という名前で発表された。戦争に向かう時代にあっても、村野はあくまで「市民のための施設」と考えていたのだ。設計途中では正面玄関に権威的な車寄せと階段を設けていたが、完成した建物は開かれたステージからまっすぐ水平にロビーに入る構成になっている。そのステージの上で、こどもたちが遊ぶ情景を目にしたことが、強く印象に残っている。

建築が残るためには、長谷川氏の言葉にもあった「受け手」が育たなくてはならない。たとえば広島では「アーキウォーク広島」という市民団体が建築ガイドツアーなどの啓蒙活動を行っている。丹下健三設計の香川県庁舎は、市民のたゆまざる清掃によって維持され、今では「ガイドブックに載る県庁舎」となった。県もガイドを育成しているという。また、8つの前川國男作品を擁する弘前では、同様に前川建築を持つ自治体と連携して「近代建築ツーリズムネットワーク」を立ち上げた。

村野が生涯にわたってかかわり続けた宇部は、村野の作風を決定づけた都市といってよい。村野は宇部で、記念会館のほかに、銀行や事務所、倉庫といった多様な建物をつくった。その仕事を通して村野は、どんな用途の建物であっても、人間が使うものである以上“美術建築”でなければならない、という信念を貫いた。

宇部にとっての村野建築は、生きて使われるリビング・ヘリテージであると同時に、市民の歴史を刻むシビック・プライドの源泉でもあると思う。ぜひ村野作品の価値を継承し、広めていってほしい。


京都工芸繊維大学教授・松隈洋氏による基調講演



記念会館80年を機に、村野建築を擁する3都市の関係者が集まる


シンポジウムでは、宇部のほか、村野建築を擁する2都市からも報告者を迎えた。以前の記事でも紹介した、米子市公会堂の保存運動に携わった建築家・来間直樹氏。八幡市民会館のある北九州市からは、同じく建築家の古森弘一氏と森崎浩氏。地元宇部からは「ヒストリア宇部(旧宇部銀行)」の保存・再生にかかわった山口大学大学院教授の内田文雄氏が登壇。日本建築学会中国支部山口支所長の原田正彦氏がコーディネーターを務め、コメンテーターとして松隈洋氏が列席した。

建物の保存活用を訴える際に「DOCOMOMO japan」のような機関の評価を得ることは、強力な後押しになる。ただし、ここでもキーワードは建物の「受け手」だ。第三者からのお墨付きよりも、当事者である「受け手」からの支持のほうが力になる。

そのことを象徴するのが、報告に取り上げられた「ヒストリア宇部」だ。戦争による物資制限のさなかに建てられ、満足に仕上げもできなかった建物で、増改築も繰り返された。村野作品として“美術的”価値を問うのは難しいかもしれない。宇部市議会は一度、解体を決定した。しかし、市民による嘆願書やシンポジウム開催などの保存運動が盛り上がりを見せ、一転、市の施設としての保存活用が決まった。

ヒストリア宇部は、戦火をくぐり抜けた建物として、当時の記憶のよすがになっている。初めから市民のものとして建てられた記念会館と違い、もとは私企業の建物だが、今は市民が共有する「まちのなかの大きな部屋」として、気軽に使われているそうだ。

一方で、八幡市民会館は、まだ先行きが不透明だ。今年4月に市民有志による「八幡市民会館リボーン委員会」が北九州市に提出した「こどものための施設」としての活用提案は、事業の実現性が低いとして却下された。しかし、保存への熱意が認められ、建物は当面現状のまま保存されることとなった。とはいえ未だ閉鎖されたままで、活用策は決まっていない。

八幡市民会館は1958年の竣工で、渡辺翁記念会館やヒストリア宇部より約20年若い。
松隈氏は言う。「建築が人間の寿命を超えて残らなければ、その時代を生きた人たちの文化を次世代に伝えることはできない」。

渡辺翁記念会館80周年を機に、村野建築を擁する3都市の関係者が一堂に会したことの意義は小さくない。前川國男の「近代建築ツーリズムネットワーク」に続き、村野を巡る“建築の輪”がひろがっていくことを望みたい。


上左/ヒストリア宇部(写真:脇 彌生) 上右/宇部・米子・八幡から報告者が登壇したシンポジウム 下左/米子市公会堂(写真:来間直樹) 下右/八幡市民会館



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