泡沫の夢と消えた幻の鉄道線「未成線」。廃線跡に続く新たな観光資源となるか

LIFULL HOME'S PRESS

泡沫の夢と消えた幻の鉄道線「未成線」。廃線跡に続く新たな観光資源となるかの記事画像

全国各地に今も残る未成線の痕跡


廃止になった鉄道路線の跡をたどる、「廃線跡歩き」。1990年代にブームとなったこの趣向は、今や鉄道ファンや愛好家の間ですっかり定着した感がある。
ここでいう廃線跡とは、「かつて実際に運行されていた路線」の遺構のこと。一方、開業をめざして計画はされたものの、実際にこの世に誕生することなく消えていった幻の鉄道路線が、この日本列島には無数に存在するという。
いわゆる「未成線」、未完成のまま中途で放棄された「未完成の鉄道線」である。

この未成線というジャンルについては、実は鉄道ファンでも知らない人が多い。その存在を世に知らしめた草分けともいえるのが、鉄道ライターの森口誠之さんだ。森口さんは90年代後半、国立公文書館に通いつめて、戦前の鉄道省や運輸省の資料を徹底的に調査。その成果を著書にまとめ、2001年に『鉄道未成線を歩く・私鉄編』、02年に『同・国鉄編』(いずれもJTBキャンブックス)を出版した。
森口さんによれば、未成線は、①国鉄の未成線、②民間の鉄道会社が計画した未成線、③自治体主導で計画されたもの、の3タイプに分類されるという。

「国鉄の未成線の遺構は、北海道をはじめ全国各地に残っています。高度経済成長期に、国は、食糧基地や石炭基地からの輸送手段として鉄道を活用するため、全国で鉄道の建設に着手しました。ところが、経済環境の変化とモータリゼーションの進展で鉄道が必要とされなくなり、建設途中に放棄されるケースが続出したのです。
一方、関東や関西に大変多かったのが、私鉄の未成線です。ただし、国鉄が採算度外視で建設に乗り出したのに対して、私鉄は財源不足から、用地買収すらも着手できないまま終わったケースが多かった。このため、国鉄と比べると、私鉄の未成線の遺構はほとんど残っていないのが実情です」

戦前戦後の図面や計画地図を見ると、鉄道を敷設するスペースが確保されていたり、鉄道を前提にしたまちづくりがされていたりと、さまざまな形で当時の鉄道計画を偲ぶことができる。
「実は東京都内にも、未成線の痕跡は断片的に残っているのです」と、森口さんは語る。


(左)奈良県五條市にある国鉄五新線跡。跡地では年1回、木製レールでプラレールの電車を走らせるイベントが行われている。(右)都営大江戸線。光が丘駅から練馬区大泉学園町まで延伸する構想で、駅予定地まで確保済み。しかし、歴代都知事が建設に消極的で、いまだ実現していない。写真/森口誠之



1920年代の鉄道ブームと昭和恐慌、利権争いが未成線を量産


森口さんが指摘するように、未成線が大量に生まれた背景には、「鉄道からバス・トラックへ」という抗いがたい時代の流れがあった。だが、未成線を生み出した要因は、それだけではない。特に私鉄の場合は、①鉄道を作りたいという思いが先行して需要を過剰に見積もり、計画が破綻したケースや、②経済環境の変化により資金が捻出できなくなったケースが目立つという。

なかでも帝都東京は、巨大な鉄道利権をめぐってさまざまな思惑が錯綜し、あたかも鉄道計画の坩堝(るつぼ)といった感があった。
「関東大震災を機に、東京ではドーナツ状に都市化が進み、東京都市圏が一気に広がりました。私鉄各社は東京市内と郊外を結ぶ鉄道にビジネスチャンスを見出し、相次いで鉄道建設に進出。こうして1920年代には、明治期に続く第2の鉄道敷設ブームが到来します」(森口さん)

ところが、世界恐慌のあおりを受けて、1929年に昭和恐慌が勃発。経済環境は一気に悪化し、資金調達ができなくなって鉄道建設が中止されるケースが続出した。特に、郊外人口の膨張を当て込んで計画された郊外鉄道は、当初期待していたほど沿線人口が伸びず、やむなく計画中断の憂き目に遭うケースも多かった。

だが、未成線が量産された理由は、それだけではない。そこには、利権の問題も絡んでいた。
「本当に鉄道を作る気があるかどうかは別にして、鉄道会社の間で、『とりあえず免許だけは確保しておこう』という動きがあったのも事実です」(森口さん)

原敬内閣の成立以降、政党政治が本格化して与野党の攻防が激しさを増したことも、この利権争いに拍車をかけた。鉄道免許の認可をめぐって、天下り官僚や政商が暗躍し、政治家への贈収賄事件も発生。水面下では、利権をめぐる熾烈な争いが繰り広げられた。こうした免許申請の乱発が、無数の計画倒れを招いたことはいうまでもない。
こうした経緯から、無数の鉄道計画が、泡沫のように生まれては消えていった。国からの免特許を取得しながらも実現しなかった鉄道路線の数は、1000件を超えるという。


東京都内に残る貴重な未成線の遺構。京王井の頭線明大前駅の近く、旧玉川上水の水道橋下に、左側2車線分の空き地がある。これは、かつて山手急行線のために確保されたスペースだ



ついに山手線の壁を越えられなかった「池上電気鉄道白金線」


未成線は計画倒れに終わったものが多く、その痕跡をとどめているものは少ない。とはいえ、東京都内には、過去の鉄道計画の残滓ともいえる、エアポケットのような場所が今も残っている。ここでは、森口さんお薦めの未成線探訪スポットをご紹介しよう。

JR山手線は、政治・経済・文化の中枢を内包した首都東京の大動脈である。この山手線を越えて都心に乗り入れたい、というのが私鉄各社の悲願であった。しかし、そこには「行政」という、容易ならざる壁が立ちはだかっていた。関東大震災後の震災復興事業として都市計画を策定した旧・東京市が、「東京市民の足を安い運賃で提供する」という大義名分のもと、市営による市内交通の一元化を目指していたのである。
都心への乗り入れを熱望していた私鉄各社は、東京市の猛反対を受け、計画を断念。志半ばで潰えた幻の路線が、未成線のリストに名を連ねることとなった。

その1つに、「池上電気鉄道白金線」がある。
JR山手線・五反田駅のホームから品川方面を見ると、高架の上に東京急行電鉄池上線・五反田駅が見える。山手線をまたぐようにしてホームが作られたこの駅は、空中で唐突に路線が断ち切られたような、なんとも奇妙な構造になっている。
この東急池上線、実は、白金まで延伸する計画があったことはあまり知られていない。現在、東急五反田駅の改札口は駅ビルに接続し、あたかも駅ビルが路線の末端に蓋をしたような格好になっているが、この構造自体、将来の延伸を想定したものであった。

東急池上線の前身である池上電鉄は、1926年、上大崎(現・大崎広小路駅)~白金(高輪台付近)を結ぶ白金線の敷設を申請する。当時、京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)が計画していた青山線と白金で接続することにより、品川への乗り入れを目指したのである。ところが、提携先であるはずの京浜電鉄が、池上電鉄と競合する路線の免許を申請。また、延伸にかかる莫大な経費を捻出できなかったこともあって、計画は空中分解の憂き目に遭った。
改札口が駅ビルの4階に直結する、高架駅の特異な構造が、往時の計画の名残をとどめている。


JR山手線のホームをまたいで走る、高架式の東急池上線五反田駅



自由が丘を経由して墨東の花街まで。“第2の山手線”と期待された「山手急行鉄道」


ところで、山手線といえば、東京都内に“第2の山手線”ともいえる環状線が計画されていたのをご存じだろうか。
関東大震災前の1921年、民間の経済人が、大井町から洲崎と至る環状線の免許を申請。27年、「東京山手急行電鉄」として免許を取得した。だが、昭和恐慌による経営難に加え、関係者が疑獄事件に巻き込まれたこともあって、計画は一時ストップ。31年に渋谷~吉祥寺間の免許を持つ渋谷急行電鉄と合併し、帝都電鉄と改称して、34年に渋谷~吉祥寺の区間を先行開業した。これが現在の京王電鉄井の頭線である。
一方、肝心の山手急行線のほうは、都市計画との調整や用地買収が難航。日中戦争のあおりで資材不足も深刻化し、ついに40年、計画は中止に追い込まれる。

ちなみに、当時、山手線の外側をめぐる環状線を計画していたのは、山手急行電鉄だけではなかった。当時の鉄道事情について、森口さんはこう語る。
「関東大震災を機に、1920年代に人口が都心から郊外へと流れていった。これからは郊外の需要が増えると見込んで、環状線を計画した鉄道会社は少なくなかったのです。ところが、都心から郊外に放射状に延びる鉄道はある程度需要があったのですが、郊外と郊外を鉄道で結ぶとなると、なかなか採算ベースに乗らなかった。1920年代の地図を見ると、かなり時期尚早だったという印象ですね」

29年に変更された山手急行線のルートを見ると、大井町から自由が丘を経て、明大前~中野~駒込~北千住~洲崎をつなぐ計画となっている。もしこれが実現していたら、洲崎遊郭の跡地めぐりや墨東の下町歩き、城南の高級住宅地・自由が丘散策など、ひと味違った途中下車の旅が楽しめたことだろう。
現在、京王井の頭線・明大前駅のホーム端にあるエレベーターは、山手急行線用のスペースを活用したもの。また、明大駅前にほど近い旧玉川上水の水道橋下には、今も山手急行線用に確保された遊休スペースがあり、企業家たちの夢の跡をたどることができる。


見果てぬ夢に終わった東京山手急行電鉄のルート。森口誠之『鉄道未成線を歩く』(JTBキャンブックス)所収



「未成線跡歩き」は、新たな観光客誘致のツールとなるか


以上、都内に今も遺構が残る未成線の例をご紹介した。
とはいえ、未成線は過去の遺物ではない。未成線すなわち「未完成の路線」は、今も全国各地で生産されつつある。
都内では、大田区が中心となり、東急多摩川線を地下化して東急蒲田駅と京急蒲田駅とをつなぎ、京急空港線と接続して羽田空港駅まで乗り入れる計画が進行中。また、江東区や中央区でも、鉄道の延伸や新設の計画が持ち上がっているという。

そんな中、比較的進んでいる計画の1つに、都営大江戸線の大泉学園以西への延伸計画がある。これは、現在、練馬区の光が丘駅まで整備されている都営大江戸線を、大泉学園町経由で、JR武蔵野線・東所沢駅まで延伸し、“鉄道空白地域”の改善につなげようというものだ。

「都営大江戸線の延伸計画については、住宅地を貫いて鉄道を敷こうと、練馬区が熱心に進めています。とはいうものの、用地買収や予算化が進まず、計画は足踏み状態です。
21世紀に入り、経済環境の変化で、建設費の捻出はますます難しくなっています。しかも、今後は人口減少が進み、都内でも人口が増えるエリアと減るエリアにはっきり分かれてくる。計画途上で放棄される未成線は、これからも出てくるでしょうね」(森口さん)

未成線の計画ルートを眺めていると、「こんなルートで鉄道を走らせる計画があったんだ」「これが実現したらどうなっていただろう」と、さまざまな思いが浮かんでくる。大正から昭和にかけての時代状況や、錯綜する政治家や行政の思惑、鉄道にかける企業家たちの夢と打算――幻の路線の跡をたどりながら、想像力の翼を広げて未成線の歴史に思いを馳せるのも、また一興である。

だが、机上での鉄旅だけが、未成線の楽しみ方ではない。未成線跡を保有する自治体では、未成線を観光資源として活用し、地域活性化に役立てようという動きもある。
「福岡の旧国鉄の炭鉱跡では、観光客を誘致するため未成線の跡地に線路を敷き、トロッコ列車を走らせています。また、島根県浜田市では、旧国鉄今福線で、未成線跡歩きのウォーキングイベントを企画しています。昨年3月には、奈良県五條市でも、国鉄の未成線をテーマにした地域活性化のシンポジウムが開催されました。観光資源が乏しい地域に観光客を呼び込むため、未成線を活用する取り組みが、全国各地で始まっています」(森口さん)

すでに未成線の跡地の活用が進んだ私鉄の路線とは異なり、旧国鉄の未成線跡の中には遺構が残っている場所も多い。廃線跡ブームにあやかり、「未成線跡」を新たな鉄旅のジャンルとして売り出そうという自治体もあらわれ始めている。
果たして未成線は、新たな観光の目玉として、地域に福音をもたらすことができるのか。今後の動きに注目したい。


島根県浜田市から広島県に至る未成線、旧国鉄今福線。跡地にはコンクリート橋の遺構が残る。浜田市は鉄道遺産を観光資源として活用しており、ウォーキングツアーなども企画されている。写真/森口誠之



[関連記事]
【ひたちなか海浜鉄道①】地域と行政に支えられ、躍進するローカル線のトップランナー
【わたらせ渓谷鐵道①】鉄道と沿線観光との相乗効果で、地域の活性化を目指す
【大井川鐵道と街おこし①】経営破綻の危機に陥ったローカル鉄道は、いかにして復活を目指したのか
「なにわ筋線」は大阪グローバル化を牽引するか。関空-新大阪間のスピードアップで、アクセス向上を狙う
戸越銀座駅が「新・木造駅」としてリニューアル。東急電鉄が切り拓いた新たな沿線開発の可能性

出発:

到着:

日付:

時間:

test