大阪・箕面の桜ヶ丘住宅地に6戸残る、大正11年の住宅改造博覧会作品

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理想的なまちづくりと洋風の住まいと暮らしを目指して開催された「桜ヶ丘住宅改造博覧会」


阪急電鉄・箕面線「桜井」駅から田村橋通りを10分ほど北に向かい、坂を登りきった丘の上に、閑静な桜ヶ丘住宅地(大阪府箕面市)が広がる。ところどころにレトロでモダンなデザインの住宅が見られ、緑豊かな生垣や弧を描く街路が印象的だ。
この一角は、1922(大正11)年9月21日から11月26日に日本建築協会(*)が開催した「桜ヶ丘住宅改造博覧会」(旧・豊能郡箕面村)の跡地だ。展示会場そのものを住宅地として整備し、理想的なまちと洋風住宅のモデルをつくって展覧し、博覧会終了後に、家具付きの展示住宅を土地とともに販売する斬新なビジネスモデルが試みられた。

当時、この地の開発者である田村地所部(香料メーカーの宅地開発部門)は、造成を急ごうとして博覧会を誘致したといわれている。この時代、大阪をはじめ急速に工業化が進んだ都市部では、公害や衛生の点から住環境が悪化していた。関西では阪神電鉄や箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)の沿線の郊外で、住宅開発が進みつつあった。
日本建築協会(以下、協会)は、生活の洋式化を推進するため、実践的な住宅の改善運動のリーダーシップをとっていた。住宅の改善には住環境の整備が必要と考え、交通の利便性や道路の整備、上下水道の完備、ガス・電気・電話などの供給をも不可欠だとした視点が、当時としては画期的だった。住宅改造博覧会は、いわば開発者と協会の思いが一致して開催されたことになる。

*日本建築協会
1917(大正6)年、片岡安が主唱して関西建築協会として設立、19年日本建築協会に改称。関西在住の建築家にとどまらず、学会や業界もまじえた幅広い顔ぶれを擁し、建築界の啓蒙、都市計画と住宅政策に積極的に取り組んだ。19年4月に公布された「都市計画法」と「市街地建築物法」も、この協会が主導して制定された。2013(平成25)年4月1日付で一般社団法人に。


桜ヶ丘住宅改造博覧会の全配置図(左写真、箕面市作成パネル)。西側(左側部分)に陳列本館ほか施設が作られ、東側の5000坪部分に25戸が建設された。日本建築協会出品作品の住宅は、博覧会で絵葉書セットになった(右上写真、澤田家文書)。博覧会の住宅内部観覧券の裏面には観覧した住宅のチェック欄がある(右下写真、箕面市行政史料)



博覧会に出品したモダンな土地付き洋風住宅25戸が販売された


博覧会に先立って1921(大正10)年、協会は改良住宅の設計案を募集し、「原則椅子式の生活様式」「公私の部屋の分離」「暖房設備設置」の3点を盛り込んだ。優秀作品8戸が選ばれ、建築会社や設計会社、不動産会社からの出品住宅17戸を加え、計25戸が約1万5000坪ある博覧会会場の東側5000坪部分に建設された。
半円の同心円状と放射線状の道路配置は、E・ハワードの田園都市構想などに学んだ新しい郊外型住宅地の形態で、同様の道路配置をした東京の田園調布住宅地より1年早かった。会場の西側の部分には陳列本館のほか、噴水や音楽堂、活動写真館、休憩所などの施設が配置された。この博覧会は7万人あまりが訪問したほど人気を博し、終了後は実物の住宅街を残し、西側の展示施設はすべて売却・移築された。

25戸のうち伝統的な日本住宅の流れをひくものは1戸のみで、その他はいわゆるアメリカンハウスと呼ばれる和洋折衷住宅だ。どの住宅も旧来の暮らしと住まいの習慣を変えようとして洋風の生活を積極的に取り入れていた。ただし、そこへ住む家族には高齢者も和装の主婦もいる時代だったので、居間・食堂・書斎・応接室などは椅子式にして、女中室・老人室・寝室などに畳を残したケースもあった。住宅内部は「個人、家族の空間」として客間を廃止する代わりに、玄関脇に椅子式の書斎兼応接間を接客スペースとして設けた。
博覧会の応募規定では、「改良住宅(一戸建て)、2階建て、敷地面積50坪、延床面積35坪以内、建築費約6,000円」と定めていたが、出品住宅のうち17戸には1万5,000円から1万9,000円の分譲価格がついている。4年後に北摂で同規模の住宅が7,750円だったことと比べると、中産階級向けの新しい郊外型住宅地を志向しつつも、実際には高級な住宅地だったことになる。暖房など最新の設備や備え付けの家具を入れたことも分譲価格の高さに結びついた。


桜ヶ丘住宅改造博覧会の陳列本館と建設中の桜ヶ丘住宅地(箕面市行政史料)



第二次世界大戦後に13戸が進駐軍に接収され、居住者の運命を変える


それにしても、大正時代に住宅地の開発の一環で上・下水道を整え、水洗式の便所と手洗い器を備えた住宅とは画期的であった。25戸中15戸には、2階にも水洗式便所があった。家具付き住宅として売却したのは、洋風のライフスタイルへの改造を導こうとしており、高島屋や三越、大丸など百貨店の家具部、家具会社の商品が採用された。25戸中22戸に女中室が設けられているのは、戦前までは家事労働補助者として住み込むことが多かったためだろう。

桜ヶ丘住宅地が大きな試練に立たされたのは第二次世界大戦後だ。進駐軍が日本に駐留して、46(昭和21)年8月から9月にかけて桜ヶ丘住宅地の25戸のうち13戸が接収指定された。進駐軍の将校と軍属が移り住み、元の居住者は転居を余儀なくされ、しかも家具や調度品の持ち出しが禁じられた。
52(昭和27)年、サンフランシスコ講和条約が締結され、進駐軍が撤収すると、住宅接収は解除されたが、外国人居住者が家に改造を加え、外装や内装にペンキ塗装がされたり、床の間が撤去されたり、畳の間が洋室に変更されていたりしたという。結局、接収された住宅に元の所有者が復帰したケースは5戸で、残りの住宅には新規購入者が住んだり、別の人に貸与されたりした。


進駐軍に接収されずに現在も住み継がれている篠崎家住宅(日本建築協会出品作品)。99年8月23日に国登録有形文化財(建造物)に



3代が住み継ぎ、室内はマイナーチェンジしつつ元々の住宅を維持


博覧会に出品し、分譲された25戸のうち現存しているのは6戸で、今も住宅として使われている。それだけ建築技術の完成度が高かったということだろう。
そのうちの1軒、「澤村家住宅」を訪れた。協会の第1回改良住宅設計図案懸賞募集の第1等当選作品(谷本甲子三氏設計)で、「全体に若々しい気分のみなぎっている感じのよい作品」と評された住宅だ。
敷地面積はおよそ100坪、建物面積20坪、延床面積35.5坪で、木造2階建てミッション式で作られ、地下室やテラスがある。人造石磨出しの外観で、屋根には灰色の日本瓦をふいている。南面に突出した書斎兼応接間の部分がデザインの中心で、アーチを描いた窓が美しい。

現在、ここに住むのは長岡壽男さん、宣子さん夫妻。もともとは宣子さんの実家で、地盤がしっかりして水質や住環境のよい土地を探して、大阪市から箕面に引っ越してきたそうだ。宣子さんはこの家で生まれ育った。25戸のうち所有者が変わらないのは3戸だけで、ずっと同じ家族が所有し、住み続けているのは長岡さん夫妻だけだという。

大正時代の新築当初から1階にも2階にも水洗便所があり、水道や電灯が引かれ、地下室にはコークスや石炭を燃料とするセントラル・ヒーティング方式のボイラー室があり、各部屋に配管されたダクトから温風が出る仕組みになっていた。書斎兼応接間には暖炉があり、今も冬に火をつけると、煙突から煙が抜けていく。
長岡さん夫妻は、結婚を機にいったん引っ越したが、宣子さんが一人娘だったこともあって実家との関係は厚く、4人の子供を育てながら両親宅にも頻繁に通った。両親が亡くなり、子どもたちが独立した今は、この築95年の家に2人で暮らしている。
「進駐軍に接収されなかったので、3代にわたって住み継いでこられたのだと思います。 子ども時代の私は、進駐軍関係者のお宅に遊びに行ったり、ハイキングに誘われたりしながら、新しい洋風のライフスタイルを見て吸収しました。このまちには、古くから良好なコミュニティが形成され、ご近所とも仲良くおつきあいしました」と宣子さんは振り返る。

キッチンや浴室などは経年劣化とともに設備を入れ替え、和室を洋室に変更したり、照明の電球はLEDに、風呂は薪・石炭からガスに変化した。天井が高く、空間にゆとりがある反面、冷暖房の効きが遅いので、エアコンや床暖房も導入した。窓には新しく網戸を取り付け、庭の一部を駐車場に変えた。新築時には小さかった庭の大王松は、今では屋根を超えるまでに成長し、生垣のカイズカイブキは防犯の観点からフェンスに取り替えた。


澤村家住宅の書斎兼応接室のアーチ窓(左)。窓を室内から眺める(右)。天井が高く、室内を飾る照明や絵画も引き継がれて使われている



建築のモダニズムと住宅改善の熱気は今もまちに息づく


桜ヶ丘住宅地を歩いてみると、近年建設された建物も含め、住宅、道路、溝、生垣、塀、樹木、庭の一つひとつが良好な街並みに寄与していることがわかる。理想的なまちと住宅を作ろうとした大正時代の気運が、今もなんとか維持されている。
自宅やまちを案内してくれた壽男さんによると、「敷地内のもっとも外側にU字溝、そして石垣、植栽と続き、ゆったり建てられています。できるだけ元の設計を残したいので、うちのU字溝は大正時代からのものを維持しています。最近、新しく建てた住宅は、溝も塀も現代風に変わっています」。

現在の桜ヶ丘住宅地に引っ越してくる人のすべてが、このまちの歴史を深く知るとは限らない。住民が変われば、コミュニティのあり方も変化せざるをえない。箕面市はこの地区を「都市景観形成地区」「景観配慮地区」に定め、景観形成のためのルールをつくっている。新しい入居者にも、そのルールのもとに、住宅建築が求められる。
現存する博覧会出品住宅では2戸、博覧会終了後に建てられた住宅1戸の計3戸が国登録有形文化財(建造物)に登録され、箕面市の都市景観形成建築物にも指定されている。長岡さん夫妻の住む住宅も、98年9月に国登録有形文化財(建造物)と箕面市都市景観形成建築物に指定された。

いわゆる文化財に指定されると、改修や補修に届け出がいるし、「できるだけ元通りを維持してほしいとのことなので、瓦を葺き直した時には淡路島産の瓦で同じデザインを再現し、なかなかのお金がかかりました。文化的な価値のある建物を個人で管理・維持していくのはそれなりに大変で、古い方式の電気配線を修理した時には、よくぞこれまで事故が起きなかったというギリギリのタイミングでした」と壽男さんは話す。耐震診断をされて建物の耐震性向上を求められているが、「いつ着手できるかは未定」とも話す。
大正11年当時の博覧会の記憶は、現存する6戸の家と、博覧会会場から長岡家の庭に移されたポスト、当時の刊行物や写真の中だけにとどまる。桜ヶ丘住宅地には、大正時代の建築のモダニズムと、住環境やライフスタイルを改善しようとした当時の熱気がひっそりと息づいている。

参考文献
「モダニズムの記憶~建築でたどる北摂の近代」(池田市立歴史民俗資料館発行)
「大正『住宅改造博覧会』の夢 箕面・桜ヶ丘をめぐって」(株式会社INAX発行)
「日本建築協会創立70周年記念 出版住宅近代化への歩みと日本建築協会」(社団法人日本建築協会発行)
「駅からはじまる郊外みのおのくらし展示ガイド」(箕面市総務部総務課作成)
「箕面・桜ヶ丘における大阪住宅改造博覧会とその後」(大阪青山大学紀要・長岡壽男氏論文)


澤村家住宅に暮らす3代目の長岡壽男さん、宣子さん夫妻(左)。敷地内には、かつて住宅改造博覧会の会場内にあったポストが移設されている(右)



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