旧料亭「三宜楼」は、門司港栄華の象徴。市民の力で買い取り、約10年かけて保存再生へ

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市の事業で文化財が守られる一方で、解体されゆく私有の建物をどう守るか


国の重要文化財「旧門司三井倶楽部」や「JR門司港駅」をはじめ、数々の歴史的建築物を擁する観光地、北九州市の「門司港レトロ」。前回の記事では、その一部を写真で紹介した。

門司港レトロは、北九州市の事業として300億円余りを投じ、約7年の歳月をかけて整備された。しかし、周辺に残る私有の建築物については、たとえ歴史的価値が認められたとしても、維持できるかどうかは所有者の事情次第だ。まちの人々に惜しまれながら、解体されていく建物は後を絶たない。

前回の記事でも触れた、門司の高台・清滝を象徴する料亭建築「三宜楼(さんきろう)」も、かつて解体の危機に瀕した。保存活用に至るまで、実に10年近くの紆余曲折を経たという。門司の人々は、どうやってまちの歴史を刻む建物を守り抜いたのか。その物語を、「三宜楼を保存する会」で事務局長を務めた城水悦子さんに聞いた。


三宜楼全景(写真提供:門司港レトロインフォメーション)



昭和初期の高級料亭も戦後は斜陽に。個人では維持できない建物を募金で救う


門司港周辺の平坦な街から山裾の傾斜地へと上る、その最初の坂道を、通称「三宜楼坂」と呼ぶ。突き当たりに威容を見せる、木造3階建ての和風建築が三宜楼だ。床面積300坪超という建物の大きさに加え、高さ約5mもの石垣の上に建っているため、存在感が際立っている。往時はいわゆる「一見さんお断り」の高級料亭だったそうだ。2階にある大広間「百畳間」には16畳もの能舞台が備わっており、その格式の高さをうかがわせる。最盛期には、出光興産創業者の出光佐三、喜劇俳優・古川ロッパ、俳人・高浜虚子などが訪れたという。

三宜楼を創業したのは江戸時代末期に生まれた三宅アサという女性で、遅くとも1906年(明治39年)には営業を始めていたことが分かっている。一代で商売を大きくし、1931年(昭和6年)に、今ある三宜楼を建てた。それから6年後、アサは83歳で生涯を閉じている。時は日中戦争が勃発した1937年(昭和12年)、三宜楼は繁盛の頂点にあり、同時に斜陽が忍び寄っていた。

アサの没後、三宜楼は親族に引き継がれたが、料亭としては1955年頃に廃業している。戦後の変わりゆく時代の中で、これほど大規模な料亭を維持していくのは困難だっただろう。その後は家族が住みながら、間貸しをしていた時期もある。しかし最後は、アサの孫にあたる男性が、1階の数間だけを使ってひっそり暮らしていたそうだ。

2004年にその男性が亡くなった後、遺族は建物を維持できないとして、相続を放棄した。しかし、ここで問題になったのは、建物の所有者と土地の所有者が別々だったことだ。2005年、地主側は建物の解体を前提に土地を売りに出してしまう。価格は約3600万円。

これを知った城水さんたち地元の有志は、急きょ「三宜楼を保存する会(以下、保存会)」を結成。建物と土地の買い取りを目指して検討を始めた。城水さんは、当時のことを次のように振り返る。

「土地の所有者に売却の猶予をお願いし、購入に向けて募金活動を始めました。門司港レトロの建物は行政が保存してくれたけれど、私たち市民も、ひとつぐらいは自分たちの力で残さなければ。企業に多額の寄付をお願いするより、たとえ1000円ずつでも、広く薄く、まちの1人1人の想いを結集したいと考えました。みんなの手で残したんだ、と実感できることが大切だと思ったからです」

2006年3月から8ヶ月かけ、約1300人から集めた募金の総額は、2000万円近くに上った。しかし、うち300万円は募金期間中の地代と建物の応急補修費などに充てなければならない。地主との交渉の末、当初の約半額の1700万円で土地を譲ってもらえることになった。建物は無償で譲渡を受け、ひとまずの延命が決まった。しかし、物語はここでは終わらない。


(上)夕暮れの三宜楼坂 (下)三宜楼2階にある「百畳間」。これだけの大空間で、上に3階があるにもかかわらず、途中に柱がない。建設時の技術の高さをうかがわせる。写真提供:門司港レトロインフォメーション



建物の取得後も問題は山積み。市に寄贈し、改修オープンまでに7年を費やす


人が使わない建物は傷みが早い。増して三宜楼は築80年を超す木造建築だ。活用するためには修復に加え、耐震補強も必要になる。ここから先は、市民の力だけではどうにもならない。保存会は、北九州市に支援を求めた。土地・建物を市に寄付する代わり、保存策を検討してほしいと願い出たのだ。もちろん、運営には市民が自ら携わることも申し出た。建物の活用策として、飲食店を誘致して収益を得ることや、一部を見学スペースとして公開することも提案した。

市側もプロジェクトチームをつくって調査に乗り出したものの、基礎部分にもゆがみが見付かるなど、問題は山積みだった。門司港レトロへの移築も検討に上ったが、それでは建物が持つ歴史的な意味も、三宜楼坂の景観も損なわれてしまう。結局、市が現地保存の意思決定を下し、寄付を受け入れるまでに、2年以上を要した。保存会は名称を「保存活用協力会」に変更し、活動を続ける意思を表明。2010年1月、保存会の発足から4年が経過していた。

しかし、これだけ月日をかけても、立場の異なる人々と、保存への想いを共有するのは容易ではなかったようだ。市が開いた改修設計説明会で披露された完成イメージは、大胆で斬新なリノベーション案。「三宜楼の昔の姿を取り戻したい」という地元の人々の願いからはかけ離れたものだった。協議の末、改修設計はやり直しに。その後も、工事を落札した業者が難工事を理由に辞退を願い出るなど、事態は二転三転した。

ようやく本格的な改修工事開始に漕ぎ着けたのは2013年に入ってからだ。改修費が膨らんだため、全面改修は断念。傷みのひどい部分を取り壊し、3階は通常使用しないことにする。それでも、総事業費は2億円近くに上った。竣工は2014年3月。4月26日に、ようやく念願の一般公開を果たした。


三宜楼の玄関から1階廊下を見通す。建物のいたるところに設けられた「下地窓」は部屋や場所ごとにデザインが異なる。明治生まれの職人たちが腕を競い合ってつくったのだろうか(写真提供:門司港レトロインフォメーション)



三宜楼は街の人々と観光客の出会いの場。街と建物の歴史を語り継ぐ


現在、三宜楼は、「保存活用協力会」ほか地元6団体と北九州市で構成する「三宜楼運営協議会」によって運営されている。下関の老舗ふぐ料理店「春帆楼」が支店を出しているほか、2階の広間はイベントや会合に貸し出しを行う。1階に設けた展示室には地元の人たちが交替で常駐し、建物を掃除したり、訪れる人を案内したりと大活躍だ。1ヶ月に600人超が来場するという。その半数は北九州市外からの観光客だ。

運営協議会会長の古賀直和さんも、自らガイドを務めている。「三宜楼がオープンするまでは、街を訪れる観光客に声を掛ける機会などありませんでした。ここは街の外の人と交流し、情報交換できる場になっている。それが私たちにとって、三宜楼の運営に携わる醍醐味です」。地元の人にとっては日常の景色や当たり前の物語が、観光客、特に若い世代に新鮮に受けとめられることが、刺激になっているという。

未補修のため、立ち入り禁止の3階には、ガイドが立ち会う場合に限って上がることができる。一間だけ改修された通称「俳句の間」の窓からは、明治時代の赤煉瓦建築「九州鉄道記念館」や大正初期に建てられたJR門司港駅(現在改修中)が見え、その向こうに関門海峡が広がる。源平の昔にまで遡れる、歴史を重ねた風景だ。「戦前はここから、船の出入りが見えたことでしょう。三宜楼の最盛期は戦乱の時代でした。ここで飲食した人々は、明日の命も知れない中で、束の間の宴に身を委ねたかもしれない。そんな時代の気配を感じ取ってもらえればと思います」(古賀さん)。

オープンから3年以上経ったが、3階は「俳句の間」以外閉め切られたままだ。城水さん、古賀さんたちは、全面改修を目指して資金集めを続けている。入場無料の三宜楼の玄関に、今も募金箱があるのはそのためだ。


参考文献:羽原清雅著「『門司港』発展と栄光の軌跡 夢を追った人・街・港」書肆侃侃房
三宜楼HP:http://www.mojiko.info/3kanko/sankiro/


(左上)「俳句の間」の床の間には、この部屋を訪れたという俳人・高浜虚子と、その弟子で北九州に住んだ杉田久女の句が掛けられている(右上)3階にある「俳句の間」からは門司の街と関門海峡が望める(左下)「俳句の間」前室の丸窓(右下)「百畳間」の能舞台には、かつて三宜楼で活躍した芸妓の衣装が飾られている。説明しているのは三宜楼運営協議会会長の古賀直和さん



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