【船橋】戦前の高級住宅地と娯楽の殿堂~海神、花輪台、三田浜楽園

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船橋からひと駅先に昭和初期の別荘地があった


船橋から連想するものというと、地方出身の私には、巨大娯楽施設ヘルスセンターとストリップ劇場である。ヘルスセンターは地方でも広告を打っていたし、ストリップ劇場については、深夜テレビ番組の11PMで見たからだ。
東京で就職した頃はららぽーと(ヘルスセンターの跡地にできた)、その後、人工スキー場ザウス、今はイケアと、いずれにしても海側の大規模商業娯楽施設が思い浮かぶ。だから、住宅地といわれても、戦後の住宅公団や民間による巨大団地やニュータウンのイメージが強い。

ところがだ。あったんですねえ、船橋にも、高級住宅地が。
昭和8年(1933)に京成電鉄が開発した海神台分譲地が海浜別荘住宅地として売り出されたのがそれだ。京成線で船橋の一つ東京寄りの海神駅が最寄り。駅の北側の海神台、あるいは海神山といわれる丘陵地に、それはできた。京成電鉄最初の不動産開発事業で、総面積は1万8400坪、分譲戸数は86だった。ということは1戸平均214坪、約700m2である。今から見るとだいぶ広い。中には1000坪を超えるものもあったようだ。


京成電鉄資料にある海神台分譲地の図面



海神、稲毛、千住緑町という沿線開発


海神台分譲地は即座に完売し、京成電鉄は市川、稲毛、千葉海岸、小岩などに散在する社有地を整理・販売し、いずれも即売したという。
昭和9年(1934)には現在の足立区千住緑町に所有していた土地の一部を分譲し、翌年残りの土地を財団法人同潤会に売却した。緑町の土地は、上野―日暮里間の京成線が地下に敷設されたために、トンネル工事で排出された残土で埋め立てたものである。
同潤会はそこに職工向け分譲住宅地をつくった。これは住宅研究の先駆者、西山卯三(にしやま・うぞう)が研究したことでも知られる。1区画30坪の小振りなもので、そこで商売ができる店舗兼用の住宅だった。
当時の新聞広告には、千住緑町、海神、稲毛と書いたものがあるから、これらが沿線上の重要拠点として位置づけられていたのではないかと思われる。

海神山は、昔は一面が松林で、眼下の田圃の向こうに東京湾を望み、西には富士山が見えるという風光明媚な土地だった。明治以来、船橋、市川などでは、軍関係の施設が増えたため、軍の将校、外国の武官、留学生たちの住宅ができ、特に薬園台にあった陸軍騎兵学校の関係者が多かったらしい。
そういう軍人たちを兵卒が毎朝迎えに来るときの軍靴の音、馬具のきしむ音、馬の蹄のY音、サーベルががちゃがちゃいう音などが海神山の音の原風景であり、いつしか人々は海神山を将軍山と呼ぶようになったという。

しかし、今の海神台はかなり土地が分割されている。50坪単位の今どきの戸建てが並ぶ区画もある。だが、分譲当初のままかと思われる住宅や、広い敷地を残したところもあり、往時が偲ばれる。
取材後、海神駅近くの寿司屋に入ると、とても美味しい。やはり住民の水準が高いから寿司もうまいのだろう。
寿司屋の主人に尋ねてみた。

「このへんは大きい家が多いですね」
「いやあ、昔もっと大きかった。500坪、1000坪なんて、ざらだったんだ」
「船橋中の社長さんが住んでるんですか?」
「東京の社長もいるらしいね」
「昔は軍人ですか?」
「そうそう。中将クラスが多かったね」
「大将はどこですか」と尋ねると、「大将は幕張と市川の菅野だな」という。今後幕張と市川も探訪してみよう。


京成電鉄が昭和初期に分譲した海神台



もう一つの高級住宅地・花輪台


海神台分譲地の歴史を調べていると、昔の船橋では「西の海神、東の花輪台」と言われたという記述を見つけた。
花輪台とは住居表示ではなく、住所では船橋市宮本6丁目あたりであり、京成電鉄船橋競馬場前駅の北側の高台。県立船橋高校の南側である。
この花輪台の一角に東船橋緑地がある。これは明治40年頃、凸版印刷株式会社の創始者伊藤貴志の「伊藤別荘」が建てられたところであり、その後、両国で大規模に洋紙卸業を営んでいた山崎梅之助が昭和10年(1935)に別荘地として取得した。
 
その息子山崎鉦三(しょうぞう)が11年から12年にかけて、迎賓館的な使用を目的として木造3階建ての「凌雲荘」(通称「山崎別荘」)を建てた。
また戦前の一時期には、閑院宮(かんいんのみや)邸として使用され、戦後は「観光荘」という名の料理屋になったこともある。
平成6年(1994)に船橋市は山崎別荘地全体を購入したが、建物を活用することなく平成12年(2000)に別荘を解体してしまった。

その旧・山崎別荘のまわりが、昭和初期に区画整理され、その後「花輪台」と名付けられて別荘地として宅地分譲された。ただし、開発分譲の主体が誰か、正確な時期はいつかは、船橋市に問い合わせても、明らかではない。
行ってみると、たしかに海神台以上に豪邸が並んでいる。あまり土地が分割されていないようだ。海神台も、土地分割がされる前はこうだったのかも知れない。北西側の市立宮本中学校は敷地も広く緑も多い。その隣の茂呂浅間神社は、千年以上前の創建らしく、古色蒼然とも言うべき雰囲気で、歴史の深さを伝えている。郊外にも、住宅地になる以前の長い歴史があるのだと、あらためて感じさせてくれる場所だった。


船橋のもう一つの高級住宅地・花輪台



宿場町・船橋


夕方が近づいたので、花輪台を下り、船橋の繁華街まで歩いた。昔、川端康成や太宰治が訪れた場所があるというからだ。
船橋は、江戸から成田までの成田街道沿いに栄えた宿場町「船橋宿」でもあるが、その中心が船橋本町。京成船橋駅の南側一帯である。今はだいぶビルやマンションが増えたが、高度成長期は労働者が慰安を求める飲食と娯楽の街だった。冒頭に書いたストリップ劇場もあったし、今もソープランドがある街だ。

昔は、街道の南側はすぐに海だったから、魚介を料理し、海を眺められる旅館や料亭がたくさんあった。その一つが玉川旅館。大正10年(1921)に料亭として創業した。
太宰治は転地療養のために昭和10年に1年間、宮本1丁目に住んでいた。その時代に「虚構の春」「ダス・ゲマイネ」などが書かれている。玉川旅館の「桔梗の間」に長期逗留したことがあるという。


大正時代創業の玉川旅館と三田浜楽園後にできたタワーマンション



塩田の後にできた娯楽の殿堂「三田浜楽園」


玉川旅館の南側にそびえるタワーマンションの敷地は、昔は娯楽の殿堂だった。「三田浜楽園」というもので、もともとは「三田浜塩田」という塩田であり、その所有者の仁礼景範が東京の三田に屋敷を持っていたため三田浜と名付けられたという。
そこに、昭和2年(1927)にまず割烹旅館ができた。そして昭和4年には塩田が廃止され、「楽園」がつくられていく。

三田浜楽園には、全盛期には、割烹旅館、遊園地、児童園、魚釣り場、ビリヤード場、野球場、1800坪と4万坪の2つの海水プール、地下300メートルから出るラジウム温泉があり、また、猿、熊、鶴、孔雀などを飼育する動物園があって、多くの人で賑わったという。まるで戦後の船橋ヘルスセンターみたいではないか。これは船橋の遺伝子か。

昭和8年から10年頃に川端康成が三田浜楽園を訪れ、旅館で執筆をした。「童謡」という小説は三田浜で書かれたという。
私はどう転んでも川端康成にも太宰治にもなれないが、一度玉川旅館で執筆をしてみたいものだ。


往時の三田浜楽園



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