【玉川学園】理想の学園都市に、アラフォーのママたちが夜の娯楽を提供する

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素晴らしい住宅地だ!


「理想の夢の苗床」「真の教育の道場たる玉川学園の建設費を得るために教師が経営する田園都市」「夢のごとく美しき文化的芸術的都市の建設」「東京近郊の軽井沢」「武相(注:武蔵国と相模国)の平野一望の下、快きスロープ、森林美、交通至便」
玉川学園の住宅地が分譲されたときの宣伝文句である。当然見るべき住宅地だ。

だが、うかつだった!成城学園と同じ小原国芳がつくった住宅地、だから成城に似ているのだろうとくらいにしか思わずに、私は今まで訪ねたことがなかったのだ。
それに各駅停車駅だし。町田に行くことはあっても、急行に乗るから、手前の玉川学園前駅は素通りしてきた。隣の鶴川の白洲次郎・白洲正子邸(武相荘)には二度も行ったのにな。

ところがこのたび、玉川学園で街づくりをしている団体から私に講演依頼があり、初めて玉川学園を訪れることになった。驚いた。玉川学園がこれほど魅力的だったとは!
特に、最も初期に開発された地区は、豊富な緑、急な斜面、敷地も広く、住宅のデザインも家並みも文化的。教育、芸術、建築関係者が多く住んでいることが街の雰囲気からわかる。窓枠に木枠が多いなど、自然と親しむ生活を好む人が多いであろうことも肌で感じられる。

内田秀五郎による杉並・井荻の区画整理を研究された高見澤邦郎先生が長らくお住まいということで、講演前に先生自らによる街のご案内もして頂いた。
赤瀬川源平邸、あの藤森照信設計の「ニラハウス」も見ることができた。ニラハウスも、町田市だとは知っていたが、玉川学園だとは私は知らなかった。なーんだ、もっと早く来ていればよかった。
まあ、本連載はだいたいそういうところを訪ね歩いているのだが。


家並みも商店街も素敵な玉川学園



山の中で理想教育を実現する


なぜ小原国芳は、成城学園だけでは飽きたらず、玉川学園をつくったのか。
それは、成城学園では創立以来「自学自習」「個性尊重」「能率高き教育」「科学的研究の基礎に立つ研究」「自然に親しませる教育」という五つの精神の実現を目指したのに、学園がすぐに帝国大学入試のための予備校のようになってしまったからだった。成城では実現できなった真の教育を玉川学園で実現しようとしたのである。
そう思い立った小原は、29年に玉川学園を開設した。成城学園の開始は1925年である。たった4年後である。かなり気が早い。「ロマンチスト」「理想主義者」「ドリーマー」あるいは「直情径行(けいこう)」「大風呂敷」と評された人物らしい動きである。

標高100mに達する山地を重機のない時代に開拓するのも容易ではなかったと思われるが、小原がこういう山地を選んだのには訳があった。28年、小原が京大の同窓会の帰りに奈良県丹波市の天理教本山を見学した際に非常に感銘を受けた。あえて、東京郊外の山の中に自分の理想の教育の場をつくろうとしたのである。

「お願いいたします。私のこの土地に世界一の学校をつくりたいのです。山と丘が欲しいのです。比叡山も高野山も見延山も永平寺も、学問と修行の場は山の中にあります。私はこの丘陵に学問の本山を造りたいのです。」と小原は演説した。「成城学園は平地につくりましたが、どうも平凡になってしまいます」とも言ったというのが、笑える。
「平地だと建物が建つにしたがって前が見えなくなって面白くない。山地ならば、階段のように建物を建てていくと窓からずっとむこうの山も見える。それだけでも豊かな心になれる。」という理由もあった。

こうして小原は、土地を当時の三倍の値段で購入した。資金は、講談社の野間清治から融資を受けた。成城の生徒の父兄で後に王子製紙社長となる井上憲一の紹介だった。
購入した土地を分譲するために町田耕地整理組合が結成され、小原みずからが組合長となった。そして分譲して得た資金を学園の建設費に充当したのである。

分譲地の広さが平均500坪というから今から見れば豪邸。別荘地のようなものであった。「夏の夕べ、隣家の台所からキュウリを刻むトントンという音が聞こえると読書が妨げられる」ので「土地の単位を500坪くらいにすれば大丈夫だろう」というのが500坪の理由だったそうだが、キュウリの音くらいなら100坪でもよかろう。
住宅には石垣を使わず、高さ90センチの生け垣にすること、門構えをつくらないこと、敷地の角を角(すみ)切りにすることが基本とされた。たしかに田園都市が目指されていた。
 
こうして29年にまず小原ら3家族15人が入居。2年後には38戸。45年、終戦直後には80戸が住んだというから、まだ本当に山の中に小さな集落ができたように見えたかもしれない。あるいはドイツのロマンチック街道の都市のように見えたか。

街道で思い出したが、玉川学園の一部は、昔は本町田村であり鎌倉街道の要所であった。本町田から北に行くと小野路という道を経由して多摩ニュータウンの永山方面に至る。
また古代東海道の店屋(まちや)駅は、本町田より南の今の南町田方面らしく、バス停などに「町谷」の地名が残っている。
幕末には『古代への情熱』で知られるシュリーマンが原町田村に来て「高い丘の頂からの眺めが素晴らしかったと書いているそうだから、本町田村近くにも来たかも知れない(シュリーマンが飛鳥山など各地を訪ねていることは拙著『東京田園モダン』を参照)。
 
原町田村とは今の町田駅周辺だが、もともとは本町田村の「くさば」であり、村の共有地として牛馬のエサになる草や、屋根を葺くカヤ、薪や炭の原料となる雑木を採る場所だったという。だがこの原町田のほうが鉄道開通後に発展し、40年ほど前まではJR横浜線の町田駅も原町田駅といったのである。

また本町田の地主だった小川運太郎は、梅や桜が好きで、所有する山に梅を植え、1909年に「小川園」という梅林をつくったほどだった。園内では自転車競走が行われたという。当時は自転車が文明の象徴として世界的にもてはやされたのだ。
小川園はその後人手に渡り、「香雪円」という名に変わった。戦後すぐまで入場無料の公園として親しまれたが、農地解放の対象となって消滅したという。


玉川学園の初期の地図



ママが始めた文房具屋の軒先のスナック


さてこのように有史以来、良好な土地としての歴史を持ち、昭和の理想的な住宅地となった玉川学園も、現在の少子高齢人口減少の波には逆らえない。
2002年には16910人だった人口は2017年には16454人に3%弱減少。わずかとはいえ、今後への不安がよぎる。なにしろ街は急な坂だらけである。65歳以上の割合はすでに3割を超える。高齢化が進むと住みづらい。
子育て期の世代にも、共働きをして保育園への送迎をするとなると、この地形が大変そうだ。

だがとてもいい街だ。そこで育った世代の愛着も高いようだ。
街づくり団体の方に話を聞くと、団塊ジュニアの女性が商店街の軒先を借りてイスとテーブルを置いて「スナックつばめ」という店を出しているという。
3歳の時に世田谷から玉川学園にやってきた女性で、大学卒業後は雑誌の編集をしていた。その経験を生かし、今は子育てしながらライターの仕事をしている。『玉川つばめ通信』というフリーペーパーを執筆、発行したり、玉川学園の商店街の冊子をつくったりと、地域に根ざした活動にも熱心だ。

私は、これからの郊外住宅地は女性も高齢者もいろいろな人が楽しく働けるワーカブルな場所になることが必要であり、働いた後にくつろげる夜の娯楽が必要であると主張しているが、まさにその良い事例だと直感した。

その彼女、宇野津暢子さんも私の講演会場に来ていた。そして私に質問をした。街づくりをする上ではどんな活動をしたらいいのか、また、文房具屋の軒先では冬はスナックができないので、場所はどうしたら見つかるか、という質問だった。
私は、やはり老若男女が一緒に食べられる場所が必要だと思う、場所については、今この講演会場にいる人たちの中に、場所を貸してもいいという人がいるのではないかと回答した。


文房具屋の軒先でスナックを開いた



12月29日に小料理つばめが開店、大盛況


そうしたら、本当にいたのだ。以前寿司屋だったが、今は福祉関係の団体が使っている場所を、年末、団体が仕事納めをした後に使ってはどうか、という提案だった。
宇野津さんは早速その話に乗った。このスピード感は小原国芳のスピリットか?
なんと暮れも押し詰まった12月29日に店を出すことになった。スナックではなく「小料理つばめ」。おでんと焼き鳥と、その他いろいろ出す。チラシをつくって街にたくさん貼った。

行きがかり上、私も29日に伺った。関心がありそうな仲間を数名連れて行った。
まず建築家2人組のtomito。横浜の野毛山のほうでカサコというコミュニティスペースをつくり、みずからもそこで「スナックtomito」を月1回開いている。
そして、埼玉県の某ニュータウンの空き家に移住し、空き家の中にスナックを開こうと準備中の女性。西荻窪で本業とは別に週1回スナックのママをしている女性。杉並区でコミュニティキッチンを企画・コーディネートしている齊藤志野歩さん。それから所沢市で街づくりをしている男性などである。

小料理つばめに着いてみると、駅からは近くない場所なのに大盛況。100人近い人が押しかけて、宇野津さんに協力するママたち数名が、まるで吉本新喜劇のようにてんてこまいの状態だった。宇野津さんのこれまでの活動への共感を持っている人がたくさんいるのだろうと推察された。
と同時に、やはり郊外住宅地の中にみんなが集まれる、でも、市民センターではない、ちょっとした夜の娯楽があることが望まれていることは明らかだと私は感じた。「隣家の台所からキュウリを刻むトントンという音が聞こえる」どころの騒ぎではなかったと思うが、これからの郊外にはこうした夜の賑わいも必要なのだ。


ママ友たちが総出で助けてくれた。ママの夫が料理長を引き受けた



郊外に快楽を提供したい


宇野津さんは大学卒業後、出版社で生活情報誌の編集をしていた。結婚し、子どももできたので、子育てしながらフリーライターを始めた。玉川学園の商店街のマップなどもつくっている。それがなぜスナック?

「小学校のPTA会長をしていたのですが、自分の子ども時代には学校の前の文房具店で買っていたのに、業者から一括して買うようになったんですね。でもやっぱり地元の文房具店がなくなるのはイヤなので、文房具店を助けたいという気持ちもあって、ひらめいたのがスナックつばめです。店先がワイワイにぎわっていたら、お店に来てくれる人も増えるかなと思って。それで文房具店の方に、月1回、店頭を貸してくれませんか?ってお願いしたら快くOKしてくださった。隣のスーパーでお酒とつまみを買って午後の3時から9時までイスとテーブルを出して。」

なぜつばめかというと「毎年夏が近づくと、玉川学園前北口の階段下につばめが飛来し、巣をつくります。駅では巣の横に『温かく見守ってあげたいと思います。つばめのフンにご注意ください』という貼り紙をします。中学生のころからその様子を見ていて、このまちって鷹揚でいいなあと思っていたのです。それが私にとっての玉川学園のイメージだったので、フリーペーパーも『玉川つばめ通信』にしました。スナックに来るセクハラおじさんに、お前若いつばめを囲う気だな!とか言われて苦笑しましたが、そっちのつばめではありません!」

今回小料理つばめをやってみて、どうだったか。
「仕入れすぎてなんと赤字だった(笑)! ですが、とっても楽しくて、ママたちって本当に頼りがいがあるなあと思ったし、お客さんも温かかったし、とにかく人がいっぱい来てくれてとても幸せでした。今後は玉川学園のさまざまな会場で、小料理つばめ、スナックつばめ、バーつばめ、駄菓子屋つばめ、つばめ婚活パーティーなど、いろんな展開がしたい。路上、空き家、公園、空き店舗など、貸してくれる場所ならどこでも。玉川学園にこういう場所があるんだ、とまちの人に知ってもらうきっかけになればさらにうれしいし、私がすごく楽しい。社会がどんどんデジタルになっているが、逆に人間はふれあいを求めていると思う。そういう意味でも、私はこれからも郊外に快楽を提供したい。」

郊外住宅地の夜の娯楽はアクティブな「美人ママ」たちがつくっていきそうだ。

*参考文献
酒井憲一「成城・玉川学園住宅地」、山口廣編『郊外住宅地の系譜』鹿島出版会、1987
玉川学園町内会『我が街』2009
高見澤邦郎『玉川学園住宅地の戦前および戦後初期の開発状況』2009


老若男女100人近くが小料理つばめに来店した。割烹着姿が小料理つばめの女将?宇野津暢子さん



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