謎深まるロシア元スパイ暗殺未遂事件
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【ロシアと世界を見る目】英国はロシア軍事情報機関工作員2人と特定したが、疑問が次々浮上

小田 健:ロシアと世界を見る目 (ジャーナリスト、元日経新聞モスクワ支局長)(News Socra)

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元スパイ父娘の暗殺未遂現場=Reuters

 ロシアの元軍事情報機関工作員のセルゲイ・スクリーパリと娘のユーリアが英国の地方都市ソールズベリで神経剤の攻撃を受けたという殺害未遂事件からほぼ半年。英政府は遂にロシアの軍事情報機関工作員2人を容疑者としてあぶり出しと発表した。「やはりロシア当局による犯行か。これで一件落着だ」と、誰もが思うもしれないが、なかなかそう簡単には納得できないところもある。まだまだ謎が多い。捜査はそう簡単には終わりそうにない。

 まずはスクリーパリ事件とは何か、おさらいしてみよう。今年3月4日午後、ロシア軍参謀本部情報総局、通称GRU(ゲーエルウー)の元工作員、スクリーパリと娘の2人がソールズベリの商店街のベンチでぐったりとし、意識不明に陥っているのが発見された。英当局の検査の結果、2人はノビチョク系有毒物質という神経剤に接触していたことが判明した。自宅玄関の把手に神経剤が塗られていたという。

 スクリーパリは2004年にロシアで英国の対外情報機関、MI6のスパイとして摘発され、2006年から13年の刑で服役していたが、2010年に米国で捕まったロシア人スパイとの交換で釈放され、以来、英国に居住していた。娘のユーリアは被害に遭う前日にモスクワから父を訪ね英国入りしていた。

 2人は重体だったが、危機を脱し、娘は4月に、父親も5月に退院した。

 ソールズベリでは捜査にあたった警官1人も神経剤に接触、体調を崩したが、3月下旬には退院した。

 テレサ・メイ英首相は事件発生から8日後に、3人がノビチョク系神経剤で攻撃され、その犯人はロシアだと発表、その後、ロシア外交官の追放など制裁を科し、米国、一部欧州諸国も英国に追随した。ロシアは身に覚えがないことだと反発、制裁合戦が展開され、英ロ関係は冷戦終了後最悪の状態にある。

 捜査が続く中、6月30日にはソールズベリ近くの町、エイムズベリで英国人男女2人が同じ系統の神経剤に接触、女性は7月初めに死亡した。男性は回復し同月下旬に退院した。2人がソールズベリの道端で拾ったニナリッチの香水瓶の中に神経剤が入っていた。

 まとめると、これまでに5人がノビチョク系神経剤と接触、4人が命拾いし、1人が死亡していることになる。

 今月5日、事件は劇的な展開を見せた。英警察当局(メトロポリタン・ポリス)はスクリーパリ父娘と警察官に対する殺害未遂事件の容疑者としてロシア人のアレクサンドル・ペトロフとルスラン・ボシロフの2人を告発した。今回は英国人男女2人の事件に関する容疑は含まれていない。

 英警察は2人が事件前日、そして当日にソールズベリの町をうろついている監視カメラの映像も公開した。さらに2人が宿泊していたロンドンのホテルからは神経剤の痕跡も見つかったことを明らかにした。

 容疑者2人は3月2日午後にモスクワからアエロフロート機でロンドンのガトウィック空港に到着、ロンドン東部のホテルに宿泊、翌3日にソールズベリに日帰りで行き、4日にもソールズベリに出かけ、神経剤をスクリーパリ宅玄関ドアの把手に塗るかスプレーで散布した。同日中にロンドンに戻り、同夜のアエロフロート機でモスクワに向かった。

 英警察発表には2人が通称GRUというロシア軍の情報機関工作員だとの情報はないが、メイ首相が下院での演説でGRU工作員だと断定、ロシア政府の高い水準の人たちによって承認されたことは「ほぼ間違いない」とも述べた。

 英捜査当局が捜査結果をでっち上げるとは思われないから、この2人が犯行に関与したことは間違いないのだろう。捜査は大きく前進した。だが、メイ首相が言うように2人がGRUの工作員かどうかなど疑問が残る。

 まず、2人はおよそプロの工作員とは思えない行動を取っている。

 2人はロンドンのホテルから地下鉄、列車を利用してソールズベリとの間を行き来した。当時ソールズベリは真冬のように雪に見舞われていた。そのような場合、日本以上に列車のダイヤが乱れることがよくある。国家間関係を揺るがすような重大な犯罪を実行する人間が荒天でダイヤがあてにならないのに列車を使うかどうか。

 それに2人はロンドンでもソールズベリでもあちらこちらに設置されている監視カメラ(CCTV)に映ることをまったく気にしていない。英国は日本以上の監視カメラ社会だ。実際、2人がソールズベリの街中をどう歩いたかは少なくとも部分的に判明しており、警察当局はその鮮明な画像を複数枚公表した。スクリーパリ宅の近く(vicinity)にも行った。ただし、スクリーパリ宅玄関での画像は発表されていない。それがあれば、警察の発表の信用性は一段と高まり、場合によっては犯行時の様子もわかるだろう。そこを映すカメラはなかったのだろうか。

 セルゲイは本名で居住していた。監視カメラも設置していなかったとなれば、警戒心が薄かったのかもしれない。

 いずれにせよ、監視カメラによって、容疑者2人は4日朝、ホテルを発ち列車で午前11時48分頃にソールズベリ駅に到着したことが分かっている。午前11時58分にはスクリーパリ宅近くにいた。その後、午後1時05分に駅に向かって歩いている様子が確認されている。

 したがって犯行はその間に実行されたことになる。白昼堂々の犯行だ。1人は監視役、もう1人が神経剤をドア把手に塗ったのだろう。2人はマスクをし、手袋をはめていたと想像される。いかにも目立ちそうだが、目撃者はいない。

 その時間帯にスクリーパリ父娘が自宅にいたかどうかは分かっていない。自宅にいた可能性はある。容疑者2人は父娘に目撃されることを恐れなかったのだろうか。

 また、スクリーパリ宅周辺の街並みは空間がゆったり取られており、歩行者は住民に目撃されやすい。しかし、これもお構いなしだったようだ。

 2人は犯行後、さっさとソールズベリを引き払ったと考えるのが常識だろう。だが、彼らは午後1時27分発の列車に余裕で乗れたにもかかわらず、何と駅を通り過ごし街中に小1時間いて、結局、午後1時50分発の列車でロンドンに向かった。

 容疑者2人は午後4時45分にロンドン・ウォータールー駅に到着した後、地下鉄でヒースロー空港に行き、3時間ほど待った後、午後10時30分発のモスクワ行きアエロフロート機に乗った。

 プロの工作員がモスクワ発のアエロフロート機でやってきてモスクワ行きのアエロフロート機に乗り込んだ。いかにも俺たちはロシア人だと思わせる行動だ。正体を明かさないよう密かに第三国経由で出入りするといった工夫は何もない。

 ただし、英警察の発表では、名前は偽名である可能性があるという。

 メイ首相によると、2人はGRUの工作員。そのプロが監視カメラをいとわず、よりによって白昼堂々、しかも時間が当てにならない列車を利用してソールズベリとロンドンを往来、さらにモスクワ発モスクワ行きの航空機で往来するだろうか。もちろんそうした可能性はある。だが、メイ首相は2人がGRUの工作員であることを示す証拠を公表していない。その証拠を持っているのかもしれない。それなら一般国民に示せないものか。

 ロシア政府は9月5日の発表に対し、これまで同様、犯行への関与を否定し、英政府に対し、容疑者の指紋など情報の提供を求めたが、拒否されたという。

 しかし、ロシア政府ができることは多いはずだ。旅券に記載された2人の名前がわかっているのだから、独自に2人を捜査し、2人の正体を明らかにできるだろう。

 ロシアのインターネット・ニュースサイト、フォンタンカ(噴水)が早速2人について簡単な情報を伝えている。ボシロフは1978年4月12日、ドシャンベ(タジキスタン)生まれ。モスクワのアパートに住民登録している。2015年に交通違反で捕まった記録がある。住民登録されたアパートには老婆が1人で暮らしており、ボシロフが住んでいる気配はない。老婆は母親ではないかという。

 ペトロフについての情報はほとんどないという。1979年7月31日生まれ。同じ名前の人物が製薬会社のミクロゲンにいるが、本人かどうかは不明。

 2人がGRUと関係があるのかどうか肝心のことはまったく分からない。しかし、ボシロフとペトロフの2人は頻繁に一緒に欧州に出かけており、裕福であることをうかがわせる。あるいはGRUがカネを出していたか。

 英国の中には2人はプーチン大統領を困らせようとする勢力に属するとか、ロシアと政治的、軍事的に対立するウクライナの工作員ではないかとの観測もある。ロシア政府が英国の捜査に協力することは現段階では考えられないが、自らが潔癖だというなら率先してそれを証明したらよいではないか。

 ペトロフとボシロフなる人物は実際に存在するのかどうか、監視カメラに映った2人はペトロフとボシロフを名乗る別の人物ではないかなど、基本的なことはすぐに分かるはずだ。英国に協力するつもりはなくても、そのくらいはできるだろう。

 この事件については、2人が本当にGRU工作員かという疑問のほかにも、2人への協力者はいないのか、使用されたという神経剤が軍事目的で開発された超強力であるはずのノビチョク系であるのかどうか、犯行の動機は何かなどほかにも謎は多い。英国警察の捜査はまだまだ続きそうだ。

(文中敬称略)

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