『橋を渡る 東京から江戸へ』企画展。神田祭の巡行路を通じて、水辺空間を再考する

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江戸時代、「橋」とは究極の公共空間であった


江戸総鎮守・神田明神(正式名・神田神社)の祭礼として、山王権現(現・日枝神社)の山王祭とともに「天下祭」と謳われた神田祭。東京の初夏を彩るこの祭礼は、江戸市中がこぞって天下泰平を祈願した、江戸最大の祭の1つであった。
天和元(1681)年以来の伝統に従い、神田祭は山王祭と交互に隔年で行われている。今年は2年に1度の神田祭の年。去る5月11日~17日、都内では神事やイベントが大々的に執り行われた。

この2つの祭の時期に合わせて、2013年から特別企画展を行っているのが、アートセンター『アーツ千代田3331』だ。今年4月30日~5月14日、同館では特別企画展『橋を渡る 東京から江戸へ』を開催。神田祭と関わりの深い橋や川に焦点を当て、その歴史的変遷や意義を問う展示や講演会が行われた。

「江戸の橋といえば日本橋が有名ですが、江戸時代には、さまざまな橋が“広場”的な役割を果たしていました。橋のたもとには迷子探しの標柱や高札場(幕府のお触を掲示する場所)が置かれ、橋という空間が、一極集中的にさまざまな社会的機能を果たしていたわけです。
当時と今とを対比しながら、その意義を考えることによって、見えてくるものもあるのではないか。効率性や暮らしやすさなど、現代の生活に活かせるヒントも得られるのではないかと思います」と、同館の地域担当マネージャー・宍戸遊美さんは語る。
本稿では、この特別企画展を監修した東京大学大学院教授・木下直之さんと、成城大学非常勤教師・滝口正哉さんの話を元に、「東京の橋」に新たな光を当ててみたい。


今川橋から撮影した神田祭(神田神社蔵)



江戸城フリーバス!?大奥の女中たちも神田祭の行列を楽しんだ


神田祭の中でも、最も華やかな行事の1つが「神幸祭」である。
これは、3基の鳳輦(ほうれん)・神輿を中心とする大行列が、108の氏子町会を巡る祓い清めの神事。神田明神を出発した行列は、神田川の昌平橋を渡り、皇居の北東を巡った後、大手町の平将門首塚(神田神社旧蹟地)に至る。この平将門こそ、ほかならぬ神田明神の主祭神であり、絶大なる霊威をもって知られた江戸の守護神だ。その後、行列は新常盤橋を渡り、神田の東側を清めた後、南下して日本橋浜町に至り、再び北上して神田明神に戻る。

一方、江戸時代の神幸祭の巡行ルートはどうだったか。
行列は、かつて存在した筋違橋を経由して神田川を渡り、田安御門から江戸城(現・皇居)に入城。ここで将軍の上覧を受けた後、竹橋御門を出て平将門首塚で神事を行い、常盤橋御門から江戸城外に出た。その後、日本橋の町々を巡って京橋の方まで南下。再び神田の町を北上して、神田明神に戻るのが決まりだった。

「筋違橋は、江戸城郭門の1つである筋違橋御門に付随する橋で、今の万世橋と昌平橋との中間辺りにありました。門の内側は広小路となっていて、当時は大変賑わっていたようです。筋違橋から日本橋に至るルート(今の中央通り)は、商家が多く氏子町が密集していて、神田祭においては花形ともいえる道でした。それだけ見物人も多く、神田祭における重要なルートの1つとなっていたようです」
本展示の監修者の1人である、成城大学非常勤講師・滝口正哉さんはこう語る。

江戸時代の神田祭には、今とはちがう点も多かった。なかでも興味を引くのが、祭礼の行列が江戸城内にまで練り込んでいたという点である。
当時は、神輿と山車を連ねたきらびやかな祭礼の行列が、江戸城の城門をくぐることを許され、将軍や御台所の上覧するところとなっていた。今なら想像もつかないことだが、そもそも神幸祭とは、神輿に神霊をお遷(うつ)しし、行く先々を祓い清めるのが本義。神威を町の隅々にまで行き渡らせ、災厄を退けることを目的とした神事である。
そう考えれば、江戸総鎮守の祭礼の行列が江戸城内に練り込むのは、至って自然の成り行きであったといえるかもしれない。江戸の守護神である平将門の加護を誰よりも必要としていたのは、ほかならぬ幕府であったからである。


東京神田神社祭礼之図(部分:神田神社蔵)背の高い山車が、橋の上を威風堂々と進む様子が描かれている



高札場や迷子探し、罪人の晒し場。幕政を支えた「橋詰」という空間


ここで、江戸の橋の成り立ちをおさらいしておこう。
江戸の中心部に、日本橋が架けられたのは慶長8(1603)年。翌年、日本橋は五街道の起点となり、橋のたもとには高札場や橋番屋、罪人の晒し場などが設けられた。
高札場とは、幕府の重要な法令を公示する場所のことである。江戸では大小取り混ぜて41の高札場があったが、なかでも最も重視されたのが、日本橋南詰西側の高札場であった。
“お江戸日本橋”は、幕府の権威を世にあまねく周知徹底させるための、統制と情報発信の場として位置づけられたのである。

一方、隅田川では文禄3(1594)年に千住大橋が完成したものの、以後70年近くにわたって、橋が架けられることはなかった。隅田川はいわば天然の外堀であり、江戸城の東の守りを固める意味でも、架橋は最小限に止められたのである。
ところが、明暦3(1657)年、江戸の大半が焼失したといわれる「明暦の大火」が勃発。隅田川に阻まれて数万に及ぶ犠牲者が出るに及んで、幕閣は橋に関する政策の再考を迫られることとなった。
こうして、寛文元(1661)年に両国橋が架けられ、新大橋、永代橋、吾妻橋などが次々に完成。延焼を防ぐため、橋詰の周辺には、火除け地や広小路などが設けられた。こうして、江戸の橋は交通インフラであるのみならず、軍事・警備上の要害にして防災拠点でもあるという、複合的な性格を併せ持つようになってゆく。


東京名勝日本橋御札場之図(郵政博物館蔵)。日本橋の南詰には高札場が設けられた。大勢の人が行き交う橋のたもとは、江戸幕府の意志を社会の隅々まで浸透させるという意味では格好の場であった



「橋」とは、町方の力を武家に見せつけるための舞台でもあった


だが、江戸の橋が果たした役割はそれだけではない。祭礼の場においては、橋は一種のシンボリックな意味を帯びることとなった。滝口さんはこう語る。
「橋はアーチ状で中央部分が高くなっているので、橋の上の様子が遠くからでもよく見える。加えて、橋の周辺は火除け地になっているため、広々として見通しがよい。したがって、“橋を渡る”ということには重要な意味があった。天下の日本橋や筋違橋は、一種の“見せ場”でもあったわけです」

祭礼は江戸の町全体を“劇場”に変え、橋は“舞台”としての性格を帯びた。では、そこで演じられたものとは、一体何だったのか。
当時、神田祭で最も人気があったのが、華麗な山車や仮装行列が趣向を競った「附(つけ)祭」である。能や浄瑠璃などを題材とし、贅を尽くして飾り付けられた山車は、商家の軒先から高々と突き出すほどに背が高かった。

「江戸の町人は、あえて背の高い山車を作り、橋の上を巡行した。洗練されたデザインや技能を祭りの場で披露することで、『武家の方が身分は上でも、文化的な面では町方はけっして負けていない』ということを、武家に知らしめようとしたわけです。
江戸城の門には、武家の象徴としての見附(見張り番所)がある。祭礼の行列が見附の橋を渡る時、そこには『町人が武家の世界に乗り込んでいく』という意味合いがあった。つまり、橋とは、武家に対する町人側の対抗意識をアピールする場でもあったのです。“天下祭”と言われる神田祭や山王祭を読み解く一番のキーワードは、町方の武家に対する対抗心である、といっても過言ではありません」(滝口さん)

自分たちこそが江戸文化を支えているのだという、町方の心意気。それを世に知らしめる意味でも、周囲から遠望できる橋の上は格好の“舞台”だった。神田祭とは江戸の町人にとって晴れの舞台であり、優れた技量と財力を武家に見せつける、またとないチャンスでもあったのである。


東京名勝筋違眼鏡橋の真景(郵政博物館蔵)。旧体制を象徴する筋違橋と筋違橋御門を解体し、その石材で作られた文明開化の石橋



今後の課題は、人が水辺に親しめる親水空間の再生


明治に入り、鉄道網の整備が進むと、江戸の水運は徐々に衰えていく。主要な輸送路であった堀や川は次々に埋め立てられ、多くの橋が姿を消した。明治の近代化とともに法制度や警察制度も整備され、かつて橋詰という空間が持っていた公共的な性格は大きく変質していく。

こうした変化は、神田祭の巡行路にも影響を与えずにはおかなかった。
明治5年には筋違橋御門や筋違橋が撤去され、翌年、その石を再利用して、2連アーチの石橋が架けられた。これが、現在の万世橋の前身にあたる、萬世橋(よろずよばし)である。
本展示の監修者の1人である、東京大学教授・木下直之さんはこう語る。

「筋違橋御門は見附の1つであり、江戸城と将軍を守る重要な門でした。ところが、明治維新後、新政府はさっそく城門の撤去に着手します。これは、新しい時代の到来を象徴する出来事でした。
江戸幕府は、人の移動を厳格にコントロールするために、江戸の至るところに木戸を設けていましたが、明治新政府は取り払い、自由な人の行き来を許した。それと同様に、人を中に入れないための仕掛けであった筋違橋御門の石垣を転用して、人を渡らせるための橋に変えたわけです。その意味では、江戸から明治への変化を語る上で、これほど象徴的な場所もないのではないかと思います」

一方で、橋の公共的な性格は明治以降も引き継がれたが、戦後のクルマ社会の到来は、橋を取り巻く風景を劇的に変えた。今では、橋自体がランドマークとしての性格を強めていく一方で、橋が本来持っていた広場的な性格は失われつつある。

「東京に限っていえば、徒歩よりも地下鉄や電車で移動する人のほうが圧倒的に多い。このため、橋という空間の重要性も失われつつあります。一方、都市デザインの観点では、橋も含めた水辺空間が見直されつつある。これからは、人が水辺と親しめるまちづくりが大変重要になってきていると思います」と、木下さんは語る。

現在、東京では親水空間「隅田川テラス」の整備が進んでおり、都心では日本橋川や神田川のクルーズが人気を集めている。このように、川と人との関係を紡ぎなおす試みが行われてはいるが、都心の橋の景観は、今も高速道路によって蹂躙されたままだ。
「橋を渡る」という情景が、都市景観にもたらす価値を見直し、橋という空間の広場的な性格を、今の時代に合った形で取り戻すこと。そこに、これからの東京の未来を作る1つのヒントが隠されているのかもしれない。


(左から)成城大学非常勤講師・滝口正哉先生、東京大学教授・木下直之先生



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