大阪和泉市 日本唯一の弥生文化博物館で日本ムラ社会の発展を知る

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日本唯一の弥生時代専門館「弥生文化博物館」


日本で発掘される石器のうち、最古の確実な例は約38000年前のものだから、少なくとも、そのころには日本列島に人が住んでいたことになる。その後15000年前ごろには縄文時代が始まり、弥生時代へと続く。

大阪府和泉市には、日本唯一の弥生時代専門館である弥生文化博物館がある。弥生時代のムラ社会がどのようなものだったのか……弥生文化博物館取材に対応してくださったのは、総括学芸員の中尾智行氏だ。

弥生時代は「稲作が始まった時代」とするのが一般的な定義。炭素年代測定法で調査したところ、今から約2900年前から始まったとされる。稲作文化が始まったのは北部九州であること、朝鮮半島を通って渡来したことは、ほぼ確実らしい。

「日本で稲作が始まったころの遺物は、朝鮮半島から出土する同時期の遺物とそっくりなんです」と、中尾氏はその根拠を説明する。


弥生時代の田植え風景を復元したジオラマ



農耕集落が生まれ、ムラ社会が始まった


水田稲作が始まると農耕集落が生まれ、ムラ社会が始まったと言われている。
縄文時代にもムラはあったが、弥生時代との大きな違いは生業。縄文時代の生業であった狩りや漁、森での採集活動は少人数でもできるが、稲作は全体での作業が求められるため、強い統率力や指導力、決断力をもったリーダーが必要なのだ。手塩にかけた耕作地を自分たちのものとして守らねばならないし、水利を奪い合うなど集団間の争いも生まれただろう。

しかし当時のムラは小規模なものが多く、数棟程度の住居が基本的な単位となっていたようだ。ただ、そういうムラも孤立しているわけではなく、近接したムラ同士の交流があり、使う道具などが共通する。

ムラが大きくなると、都市になる。大阪府和泉市にある池上曽根遺跡は、最古の都市という説もあるが、ムラと都市は何が違うのだろうか。
「都市の特徴は階層性と分業制だと言われています。ムラには首長がいても、基本的に皆が生産者です。それに対して都市は強い権力を持ったオウや、祭祀を司る神職など、非生産者層がいます。また、手工業を専門にする職人もいました。池上曽根遺跡は弥生時代中期のものですが、遺跡の中心に、紀元前52年ごろに伐採された木材で作られた巨大な建物がみつかり、神殿のようなものだと考えられています。こうした巨大な建物を作る権力の集中や、専業的な手工業を想定する研究者がおり、池上曽根遺跡を弥生の都市ではないかとする議論が活発化しました。しかし、そもそもの都市の定義や、専業化の度合いなど、研究者によって異なる状況で、まだ結論は出ていません」
と、中尾氏。分業制と階層性には深い関わりがある。権力者が生まれると「優れた製品」を集めたがったり、他国との取引のため、貢ぎ物や交換物資として専業集団の作った製品が必要になったりすることもあるだろう。

ムラが集まるとクニになる。『魏志倭人伝』には、対馬国、伊都国、奴国など、当時(弥生時代後期)の日本列島に30国ほどのムラがあったことが記されている。また、『魏志倭人伝』では、クニ同士がまとまって、連合国家に再編された様子もうかがえる。たとえば卑弥呼は「共立」されたと表現されており、当時の日本列島(倭国)には連合国家が成立したことが想像できるのだ。


邪馬台国の復元模型。真ん中に見えるのが卑弥呼の館



発掘調査や文献で推測する住居や暮らし


ムラが生まれ、クニへと発展していったことは発掘調査や文献で推測できるが、弥生時代の住居や生活を具体的に復元するのは簡単ではないという。
家は竪穴式住居が基本だが、柱の跡しか残っていないので、上部構造がわからない。出土する建築部材や、土器や銅鏡や銅鐸などに描かれた住居の姿から推理するしかないのだ。復元住居の姿が一定しないのは、地域性による違いもあるが、研究者ごとに復元像が異なるのが大きな理由だそうだ。
また、細かな暮らしぶりについては、遺跡からみつかる土器や石器などの遺物や、文献などからある程度は推測できるが、詳細については想像するしかない。

中尾氏は、
「魏志倭人伝には、高杯を食器として手づかみで食事を取り、生野菜を食べる倭人(当時の弥生人)の姿が書かれます。当館では遺跡からみつかる建物の跡のほか、土器や動物・魚の骨などの遺物から、当時のくらしをジオラマに再現していますので、ご覧ください。また、弥生時代の生活は、自給自足の生活を想像してみると、見えてくるかもしれません。春には山菜をつみ、田起こしをして稲を植えたでしょう。夏には稲の世話をしつつ漁に出る。秋には収穫を祝い、冬には保存食を食べながら、道具の手入れなどをしつつ春に備える。冬眠しないシカやイノシシを狩りにいくこともあったでしょう。基本的には江戸時代ぐらいまでの農村や山村の生活と、大きな違いはないと考えられます」と、教えてくれた。


当時のくらしを再現した竪穴式住居内部。真ん中に炉があり、周囲に四本の柱が立てられている



金属器の使用開始


弥生時代の特徴としては、稲作のほかに、青銅器や鉄器などの金属器が使われ始めたことが挙げられる。
鉄器や青銅器も稲作と同じく朝鮮半島から伝わってきたと考えられるが、時期は稲作の開始よりも遅れたようだ。鉄の斧や鋤といった工具や農具により、人びとの暮らしはより便利に、より快適になった。実験によれば、直径20cmの松の木を切り倒すのに石斧だと12分程度かかるが、鉄斧なら約3分に短縮されるという。

しかし、青銅製の工具は見当たらないようだが、なぜだろう。
「ヨーロッパや中国では、青銅器時代があり、その後に鉄器時代が訪れます。ですから、大陸では、青銅器も実用器として使われるのですが、日本には、青銅器と鉄器がほぼ同時に入ってきたので、青銅器は祭祀の道具、鉄器は工具などの実用器として使い分けられていたようです」と、中尾氏。また、鉄器といえば、武器をイメージするが、実際は工具や農具に使われることが多かったという。

「石器と比べて鉄器の方が、格段に殺傷能力が向上するというわけではありません。弓矢の鏃などは石器でも十分代替が可能ですし、わざわざ貴重な鉄器を使う意味はなかったのではないでしょうか。鉄製の刀剣などは、権力者の威光を示すためのものと考えられ、実際に武器として使用されたかどうかはわかりません」

発掘調査でも、戦闘があったと推定できるような根拠はそれほど多くなく、大規模な争いがあったかどうかは、はっきりしない。弥生時代中期から後期に高地性集落と呼ばれる丘陵上のムラが増えたことについては、戦闘に備えたとの説もある一方で、洪水などの災害に対応した動きと考える説もあるという。

銅鐸や銅鏡など、弥生時代の遺物を見るとき、2000年以上前にこんな精巧な製品が作られていたのかと驚くが、縄文人や弥生人の手業は、現代人より優れていたのだとか。

「今の鋳物師さんに銅鐸を作ってもらうと、弥生時代のものより分厚くなってしまいます。薄くできないのか聞くと、削れば薄くなりますよと。でも弥生時代の銅鐸は削っていないのに薄いのです。今はいろいろな道具があるので、道具に頼ってしまいますが、弥生時代は手作業で、技を磨いたのでしょう。そんな優れた技術が失われてしまったのは残念なことです。それに弥生時代の人たちはみな、狩りや農耕によって自らの食料を調達し、住むための家を建て、布を織って服を作りました。衣食住のすべてを自らでまかなっていたのです。限られたことしかできない現代人より、ずっと優秀だったかもしれません」

失われた縄文時代や弥生時代の実際の技術は、現代では推測するしかない。しかし、その生活に思いを馳せながら、現代に繋がる文化を大切にすることはできるはずだ。日本のムラ社会が成立したという弥生文化に興味のある人は、大阪府立弥生文化博物館を訪ねてみてほしい。


お話しを聞かせてくださった、総括学芸員の中尾智行氏



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