乗換案内30周年 短期集中インタビュー5(最終回) スマホ1台で移動を快適に!
2023/12/5 10:38 ジョルダンニュース編集部
乗換案内を世に送り出してからの30年は、パソコン人口のすそ野の拡大、インターネットの普及、そして携帯電話とスマホの登場とITの世界は目まぐるしく変化・発展した。この30年間で次々と新製品を開発し、疾走を続けてきた社長の佐藤俊和が語るジョルダンと乗換案内の歩みとは――(敬称略)。
――東大大学院を修了後、ベンチャー企業を経てジョルダンを創業してから現在に至るまで、IT化のすさまじい進展は予測できましたか。
佐藤 想定外ではなかったのですが、展開が早すぎましたね。CPU(演算処理装置)がどんどん進化してきました。70年ごろの学部生時代にコンピューターに出会い、「何だこれは」と驚き、コンピューターによって、世の中が大きく変化すると感じました。そんな中で、コンピューターシミュレーションを行う学科を見つけたのです。それが化学工学科でした。ここは石油コンビナートの設計や管理などを行う人材を育てる学科なのですが、彼らは朝8時から実験室に閉じこもり、主にコンビナートのシミュレーションの実験を繰り返していました。一方、私は計算センターに行き、コンピューターを触り始めたら、これがとても面白かったのです。当時は端末などないから、プログラムをパンチカード(紙製のカードに穴を空けて情報を記録する媒体)に打って計算センターに通ったわけです。大学の同級生とコンピューターの話をしようとしても、まだコンピューターの存在を知らなくて、全然話が合いませんでした。
――どのようなところに魅力を感じ、面白いと感じたのですか。
佐藤 ロジックを組むということです。フォートラン(数値計算用プログラミング言語)の授業を受けて面白かったのです。当時の東大の大型コンピューターといっても、今のiPhoneより性能は劣っていましたが。そのころ、化学工学科の4年生はコンビナート関連の工場見学があり、全国で10か所くらい行くわけです。しかし、私はまず、東京を離れるのが嫌だったこと、そして世の中が全部変わるのだから、工場見学などやっていても仕方がないだろうと考え行きませんでした。予備校教師をしていて、収入的な裏付けもあったので心配しませんでした。
――学部を卒業してからの進路は?
佐藤 大学院に進学するころ、ようやく情報処理関連の学科ができた時代です。自分は実験から逃れるためにコンピューターシミュレーションを行いました。ゼミの発表論文もシミュレーションしたものを題材に書きました。大学院を修了してから、ベンチャーのエス・ジーという企業に入社しました。そこで坂口さん(ジョルダン取締役、第4回に登場)と出会いました。この会社ではゲームなどの受託事業が多く、またオフィスコンピュータを作るなどヒットした製品も多かったのですが、売り上げが厳しく社員が辞めていきました。それで、自分たちで会社を作ろうとジョルダン情報サービスを立ち上げたのです。1979年、ちょうど30歳になっていました。
――ジョルダンの業務はどんな感じだったのですか。
佐藤 会社を始めてからも、システムやゲームなどの受託を続けていましたが、私は商品開発に動いていました。その一つとして、百科事典のブリタニカから英語を教える教材を作ってくれないかとの依頼がありました。若い人は知らないだろうけれど、ブリタニカは百科事典の訪問販売の会社で、百科事典が応接間に置いてあるとその家のステイタスが上がると言われたものです。しかし、百科事典ブームは終わりに近づいていたので、英会話ブームを作り、CAI(コンピュータを利用した学習法)の教材を売ろうとしていたのです。英会話教材では正誤判定が意外と難しいのですが、我々は2か月くらいで仕上げることができたため、ものすごく画期的だと評価が高まりました。シカゴの本社でデモをしました。それから、カセットテープにちょっとした細工をした英会話教材なんかも作りました。
――乗換案内という構想はいつごろ発想したのですか。
佐藤 前に勤めていたエス・ジーのときから、乗換案内は頭にありました。坂口さんも話しているように、横浜市水道局の取水システムのプログラムを請け負ったころ、最短経路を求める新しいアルゴリズムとして「ダイクストラ法」が紹介されはじめました。このアルゴリズムが都市交通のネットワークに通じると思ったからです。1978年ごろのことだったと思います。ただ、色々あって事業化には至りませんでした。
その後、ジョルダン情報サービスを作ったはいいが、稼がなければならないので、自分がSEとして動きました。そのころはDEC(米企業:ディジタル・イクイップメント・コーポレーション)のミニコンがすぐれていて、その仕事のほうが多くありました。ミニコンの性能はパソコンよりはるかに上だったのですが、ミニコンは専用の部屋を用意し、冷房を完備しなければならず、何より1000万円以上したので、一般庶民の手に届くものではありませんでした。それに対し、私はこの時点で、パソコンというか小さいコンピューターがメインになる、一人一台の時代になるということは、はっきり読んでいました。
1979年当時、Appleがパソコンを出し始めたころで、「ハードウェア」と「ソフトウェア」という概念が生まれたところでした。同年、今のエクセルのような表計算ソフト「VisiCalc」が出てきたことで、パソコンがビジネスユースの場に台頭し始めることになります。また、当時秋葉原でパソコンキットを買う若者もいました。ちょうどそのころ、マイクロソフトのOSが搭載されたNECのPC8000が登場しました。
ゲームなど様々な受託製品を開発してきましたが、1990年代初頭、10年くらい事業をやったところで、「会社の名前が残る商品をつくろう」と思い、名刺作成システムや財務会計ソフトなど、何個かの製品を自前で開発・販売しました。もっと稼げるものをと模索していたところで、乗換案内のことを思い出しました。そのころ、ソニーの方から電子ブックが登場したことを紹介してもらいます。これを最初はハンドヘルドコンピュータだと勘違いしていたわけですが、それでもこの電子ブック技術を使って乗換案内を登場させたというのが、坂口さんの話にあったことです(第4回に掲載)。
――インターネットの普及と乗換案内についてうかがいます。
佐藤 日本でも1993年からネットの商用化が進み、これはすごいなと感じました。とにかく進化のスピードが速かったです。そうした状況の中での乗換案内について話します。
競合の「駅すぱあと」が圧倒的な知名度がありましたが、ネットで経路が検索できて、時刻表まで表示できれば強いのではないかと考えました。しかし1995年ごろ、日本でサーバーを立てるとすると240万円くらいかかりました。これは困ったと思っていたところ、いろいろ調べたらアメリカでは10分の1以下の15万円くらいで済む。それでシリコンバレーに机一つ借りて、サーバーを立てたのです。1996年4月、インターネット上で「乗換案内」を公開しました。
――その後、乗換案内の利用者が増えていきました。
佐藤 そのころ、某ポータルサイトの会社から経路検索エンジンを提供してくれないかと声がかかったのです。「駅すぱあと」はそれに応じましたが、ジョルダンは自分たちで、つまりコンシューマー相手に直接、経路検索サービスを提供して使ってもらいたいという決断をくだしました。経路検索のパイオニア2社の進路が分かれたターニングポイントだったのです。1998年には、時刻表を全国全駅収録したり、携帯版乗換案内を始めたりするために、社員の皆が頑張ってくれました。
――2011年3月の東日本大震災で乗換案内はインフラになったという声が社内にありますが、そのときどのようなことを考えていましたか。
佐藤 乗換案内がみんなのインフラとして定着した一方で、そのころはスマートフォンが急速に普及していった時代だったので、その対応を急ぐことを優先しました。
――最後に2020年1月の新型コロナ感染症で働き方が大きく変わりました。これについてはどう対処しましたか。
佐藤 コロナ禍で在宅勤務が増えたり、外出制限で人の移動が減ったりした時に、MaaSで動いていたからこそコロナ禍でも救われたという面もあります。仕事がなくなった時に国がMaaS絡みの予算を付けたからです。大切なことはコロナ禍が終わっても昔のような環境でないことを社員全員にきちんと認識してもらい、受託事業のメンテでとどまることなく、新しいことにしっかり踏み出していこうと思っています。
そしてもう一つは、AIをどう取り入れようかということです。今回開発したスマートフォン向けアプリ『HANASON(ハナソン)』は、久しぶりに企画の第一線でやったという思いです。パソコンが出てきた頃とか、インターネットの拡大の頃には、いろいろ新しいもの作ったけれど、その当時を振り返っても、このAIは画期的なものになるのではないかな。
また、音声でやり取りをする新しい手法であり、次の大きな転換点だと考えています。例えばバーチャルトラベルエージェントに進化させることで、ビジネスを組み替えられるのではないか。私たちの強みは移動であるのだから、AIのパーツを組み合わせてやっていけるのはないかと思っています。
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コンピューターが世の中を大きく変えると確信
――東大大学院を修了後、ベンチャー企業を経てジョルダンを創業してから現在に至るまで、IT化のすさまじい進展は予測できましたか。
佐藤 想定外ではなかったのですが、展開が早すぎましたね。CPU(演算処理装置)がどんどん進化してきました。70年ごろの学部生時代にコンピューターに出会い、「何だこれは」と驚き、コンピューターによって、世の中が大きく変化すると感じました。そんな中で、コンピューターシミュレーションを行う学科を見つけたのです。それが化学工学科でした。ここは石油コンビナートの設計や管理などを行う人材を育てる学科なのですが、彼らは朝8時から実験室に閉じこもり、主にコンビナートのシミュレーションの実験を繰り返していました。一方、私は計算センターに行き、コンピューターを触り始めたら、これがとても面白かったのです。当時は端末などないから、プログラムをパンチカード(紙製のカードに穴を空けて情報を記録する媒体)に打って計算センターに通ったわけです。大学の同級生とコンピューターの話をしようとしても、まだコンピューターの存在を知らなくて、全然話が合いませんでした。
――どのようなところに魅力を感じ、面白いと感じたのですか。
佐藤 ロジックを組むということです。フォートラン(数値計算用プログラミング言語)の授業を受けて面白かったのです。当時の東大の大型コンピューターといっても、今のiPhoneより性能は劣っていましたが。そのころ、化学工学科の4年生はコンビナート関連の工場見学があり、全国で10か所くらい行くわけです。しかし、私はまず、東京を離れるのが嫌だったこと、そして世の中が全部変わるのだから、工場見学などやっていても仕方がないだろうと考え行きませんでした。予備校教師をしていて、収入的な裏付けもあったので心配しませんでした。
――学部を卒業してからの進路は?
佐藤 大学院に進学するころ、ようやく情報処理関連の学科ができた時代です。自分は実験から逃れるためにコンピューターシミュレーションを行いました。ゼミの発表論文もシミュレーションしたものを題材に書きました。大学院を修了してから、ベンチャーのエス・ジーという企業に入社しました。そこで坂口さん(ジョルダン取締役、第4回に登場)と出会いました。この会社ではゲームなどの受託事業が多く、またオフィスコンピュータを作るなどヒットした製品も多かったのですが、売り上げが厳しく社員が辞めていきました。それで、自分たちで会社を作ろうとジョルダン情報サービスを立ち上げたのです。1979年、ちょうど30歳になっていました。
起業後、コンピューター利用の英会話教材で高い評価
――ジョルダンの業務はどんな感じだったのですか。
佐藤 会社を始めてからも、システムやゲームなどの受託を続けていましたが、私は商品開発に動いていました。その一つとして、百科事典のブリタニカから英語を教える教材を作ってくれないかとの依頼がありました。若い人は知らないだろうけれど、ブリタニカは百科事典の訪問販売の会社で、百科事典が応接間に置いてあるとその家のステイタスが上がると言われたものです。しかし、百科事典ブームは終わりに近づいていたので、英会話ブームを作り、CAI(コンピュータを利用した学習法)の教材を売ろうとしていたのです。英会話教材では正誤判定が意外と難しいのですが、我々は2か月くらいで仕上げることができたため、ものすごく画期的だと評価が高まりました。シカゴの本社でデモをしました。それから、カセットテープにちょっとした細工をした英会話教材なんかも作りました。
コンピュータが一人一台の時代へ向けて、「乗換案内」誕生
――乗換案内という構想はいつごろ発想したのですか。
佐藤 前に勤めていたエス・ジーのときから、乗換案内は頭にありました。坂口さんも話しているように、横浜市水道局の取水システムのプログラムを請け負ったころ、最短経路を求める新しいアルゴリズムとして「ダイクストラ法」が紹介されはじめました。このアルゴリズムが都市交通のネットワークに通じると思ったからです。1978年ごろのことだったと思います。ただ、色々あって事業化には至りませんでした。
その後、ジョルダン情報サービスを作ったはいいが、稼がなければならないので、自分がSEとして動きました。そのころはDEC(米企業:ディジタル・イクイップメント・コーポレーション)のミニコンがすぐれていて、その仕事のほうが多くありました。ミニコンの性能はパソコンよりはるかに上だったのですが、ミニコンは専用の部屋を用意し、冷房を完備しなければならず、何より1000万円以上したので、一般庶民の手に届くものではありませんでした。それに対し、私はこの時点で、パソコンというか小さいコンピューターがメインになる、一人一台の時代になるということは、はっきり読んでいました。
1979年当時、Appleがパソコンを出し始めたころで、「ハードウェア」と「ソフトウェア」という概念が生まれたところでした。同年、今のエクセルのような表計算ソフト「VisiCalc」が出てきたことで、パソコンがビジネスユースの場に台頭し始めることになります。また、当時秋葉原でパソコンキットを買う若者もいました。ちょうどそのころ、マイクロソフトのOSが搭載されたNECのPC8000が登場しました。
ゲームなど様々な受託製品を開発してきましたが、1990年代初頭、10年くらい事業をやったところで、「会社の名前が残る商品をつくろう」と思い、名刺作成システムや財務会計ソフトなど、何個かの製品を自前で開発・販売しました。もっと稼げるものをと模索していたところで、乗換案内のことを思い出しました。そのころ、ソニーの方から電子ブックが登場したことを紹介してもらいます。これを最初はハンドヘルドコンピュータだと勘違いしていたわけですが、それでもこの電子ブック技術を使って乗換案内を登場させたというのが、坂口さんの話にあったことです(第4回に掲載)。
――インターネットの普及と乗換案内についてうかがいます。
佐藤 日本でも1993年からネットの商用化が進み、これはすごいなと感じました。とにかく進化のスピードが速かったです。そうした状況の中での乗換案内について話します。
競合の「駅すぱあと」が圧倒的な知名度がありましたが、ネットで経路が検索できて、時刻表まで表示できれば強いのではないかと考えました。しかし1995年ごろ、日本でサーバーを立てるとすると240万円くらいかかりました。これは困ったと思っていたところ、いろいろ調べたらアメリカでは10分の1以下の15万円くらいで済む。それでシリコンバレーに机一つ借りて、サーバーを立てたのです。1996年4月、インターネット上で「乗換案内」を公開しました。
受託ではなく、「自分たちで」サービスを提供することへのこだわり
――その後、乗換案内の利用者が増えていきました。
佐藤 そのころ、某ポータルサイトの会社から経路検索エンジンを提供してくれないかと声がかかったのです。「駅すぱあと」はそれに応じましたが、ジョルダンは自分たちで、つまりコンシューマー相手に直接、経路検索サービスを提供して使ってもらいたいという決断をくだしました。経路検索のパイオニア2社の進路が分かれたターニングポイントだったのです。1998年には、時刻表を全国全駅収録したり、携帯版乗換案内を始めたりするために、社員の皆が頑張ってくれました。
――2011年3月の東日本大震災で乗換案内はインフラになったという声が社内にありますが、そのときどのようなことを考えていましたか。
佐藤 乗換案内がみんなのインフラとして定着した一方で、そのころはスマートフォンが急速に普及していった時代だったので、その対応を急ぐことを優先しました。
激動の時代にも、新しいサービスを「世に問い続ける」
――最後に2020年1月の新型コロナ感染症で働き方が大きく変わりました。これについてはどう対処しましたか。
佐藤 コロナ禍で在宅勤務が増えたり、外出制限で人の移動が減ったりした時に、MaaSで動いていたからこそコロナ禍でも救われたという面もあります。仕事がなくなった時に国がMaaS絡みの予算を付けたからです。大切なことはコロナ禍が終わっても昔のような環境でないことを社員全員にきちんと認識してもらい、受託事業のメンテでとどまることなく、新しいことにしっかり踏み出していこうと思っています。
そしてもう一つは、AIをどう取り入れようかということです。今回開発したスマートフォン向けアプリ『HANASON(ハナソン)』は、久しぶりに企画の第一線でやったという思いです。パソコンが出てきた頃とか、インターネットの拡大の頃には、いろいろ新しいもの作ったけれど、その当時を振り返っても、このAIは画期的なものになるのではないかな。
また、音声でやり取りをする新しい手法であり、次の大きな転換点だと考えています。例えばバーチャルトラベルエージェントに進化させることで、ビジネスを組み替えられるのではないか。私たちの強みは移動であるのだから、AIのパーツを組み合わせてやっていけるのはないかと思っています。
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記事提供元:タビリス