ノーベル賞の知、スタートアップを育む 坂口・北川氏の研究成果、社会実装へ

ジョルダンニュース編集部

基礎研究の最高峰であるノーベル賞の栄誉が、日本のスタートアップエコシステムに新たな活気をもたらしている。2025年のノーベル賞発表で世界的な注目を集めた大阪大学の坂口志文特任教授と京都大学の北川進特別教授。両氏の長年の研究成果は、それぞれスタートアップ企業を通じて社会実装への道を力強く歩み始めている。坂口氏が設立に関わった創薬スタートアップ、レグセル(米カリフォルニア州)と、北川氏が科学顧問を務める京大発スタートアップ、アトミス(神戸市)。両社の取り組みは、世界レベルの知見がビジネスへと昇華する産学連携の好例として、ベンチャーキャピタル(VC)や事業会社の熱い視線を集めている。

坂口氏は、免疫の暴走を抑える「制御性T細胞」の発見でノーベル生理学・医学賞を受賞した。この発見は、自身の体を誤って攻撃してしまう自己免疫疾患や、がん治療の分野に革命的な変化をもたらす可能性を秘めている。この知見を臨床応用に繋げるため、坂口氏らが2016年に設立したのがレグセルだ。同社は1型糖尿病やリウマチといった自己免疫疾患を主なターゲットとし、制御性T細胞を活用した根治療法の開発を目指している。

ノーベル生理学・医学賞を受賞することが決まり、記者会見した坂口志文・大阪大学特任教授(右)(大阪大学のホームページから)

レグセルは今、大きな転換期を迎えている。2024年から25年にかけて「第2の創業期」を宣言し、経営の軸足を日本から世界最大の医薬品市場である米国へと移す。本社をカリフォルニア州に移転し、グローバルな製薬ビジネス経験が豊富な米国出身のプロ経営者を最高経営責任者(CEO)に迎えた。この大胆な「米シフト」戦略は、国際的な資金調達と事業展開を加速させる狙いだ。

その戦略を裏付けるように、同社は25年3月に大型の資金調達を成功させた。政府系の日本医療研究開発機構(AMED)や東京大学エッジキャピタルパートナーズ(UTEC)など国内外のVCから、総額4580万ドル(約70億円)を確保した。潤沢な資金を元に、同社は2026年に米国で初となるヒト対象の臨床試験(治験)を開始する計画で、実用化に向けたマイルストーンを刻む。坂口氏のノーベル賞受賞は、同社の技術的な信頼性を世界に証明し、VC関係者の間では「バイオテック分野での起業や投資を活性化させる起爆剤になる」との期待が広がっている。

一方、化学の分野では北川氏の研究成果が着実に産業界に根を下ろしつつある。同氏は、ガスを効率的に吸着・分離できる多孔性材料「金属有機構造体(MOF)」の開発でノーベル化学賞を受賞した。この画期的な新素材は、気候変動対策の切り札として期待される二酸化炭素(CO2)の回収や、エネルギー効率の高いガス貯蔵など、環境・エネルギー分野での幅広い応用が見込まれる。

ノーベル化学賞の受賞が決まり、記者会見した坂口志文・大阪大学特任教授(京都大学のホームページから)

このMOFの実用化を担うのが、京大発スタートアップのアトミスだ。北川氏は科学顧問として同社に参画し、基礎研究から事業化への橋渡し役を担う。アトミスは、研究室レベルの技術をいかにして量産化し、事業として成立させるかという、ディープテック・スタートアップが直面する最大の課題「死の谷」を乗り越えつつある。23年には神戸市に新本社と研究棟を構え、年間最大20トンのMOFを生産できる量産設備を導入。事業のスケールアップに向けた体制を整えた。

アトミスの成長を支えるのは、日本の大手企業との強固な連携だ。ダイキン工業、クボタ、積水ハウス、三井金属といった名だたる企業が、自社のコーポレートベンチャーキャピタル(CVC)などを通じて出資し、共同研究開発を進めている。例えばダイキン工業とは、使用済み冷媒からフロンガスを効率的に回収する装置を共同開発した。ノーベル賞受賞はアトミスの技術的優位性と信頼性をさらに高め、新たなパートナーシップや資金調達を呼び込む強力な追い風となっている。

レグセルとアトミス。両社の歩む道は、バイオと材料科学という分野の違いを反映し、異なる戦略を描く。レグセルが世界市場を直接見据え、海外VCを巻き込みながらグローバル基準での成長を目指す一方、アトミスは国内大手企業との連携を軸に、量産体制を固めて着実に事業基盤を築く。しかし、その根底には「アカデミアの知を社会課題の解決に繋げる」という共通の志がある。

坂口氏と北川氏の挑戦は、研究成果の事業化を目指す他の研究者や起業家にとって、大きな勇気と具体的な指針を与えるものだ。ノーベル賞という最高の権威が、スタートアップの資金調達や事業提携を円滑にし、成長を加速させる触媒として機能する。この好循環は、日本の起業エコシステム、とりわけ時間と資金を要するディープテック分野の活性化に繋がり、ひいては日本の国際競争力向上にも寄与するだろう。世界に誇る研究成果を、いかにして新たな産業と価値創造に結びつけるか。二人のノーベル賞受賞者が拓く道は、その一つの確かな答えを示している。

記事提供元:タビリス