【人インタビュー】「住宅」という最終デバイスを再発明せよ――シリコンバレーで挑む日本人シリアルアントレプレナー・本間毅の「コネクティング・ザ・ドッツ」
2026/2/8 14:48 ジョルダンニュース編集部

バブル崩壊、ソニーでの社内起業、そして米国への「片道切符」――すべては今の「HOMMA」へ繋がる伏線だった
シリコンバレーを拠点に、テクノロジーと建築を融合させた「ビルトイン・スマートホーム」で世界の住宅市場に革命を起こそうとしているスタートアップ、HOMMA Group。その創業者である本間毅氏は、日本のインターネット黎明期に学生起業家として成功を収めながら、ネットバブル崩壊による挫折、ソニーや楽天といった巨大企業での新規事業立ち上げ、そして米国での苦闘と再起という、実にドラマチックなキャリアを歩んできた。スティーブ・ジョブズはかつて「点と点をつなぐ(Connecting the dots)」ことの重要性を説いたが、本間氏の半生はまさにその体現と言える。なぜ彼は、何度も環境を変え、挑戦を続けられたのか。そして、いかにして現在の「住宅革命」というビジョンに辿り着いたのか。
インタビューの前半(上)では、本間氏のルーツから、学生起業、ビットバレーの狂騒、そして大企業での「イントレプレナー(社内起業家)」としての闘いの日々について、詳細に語ってもらった。

■起業家としてのDNAとインターネットとの出会い
――まず、本間さんの起業家としてのルーツについて教えてください。最初の起業は大学生時代だったと伺っていますが、その原点はどこにあったのでしょうか。
本間毅氏(以下、本間): 私の起業の経緯を遡ると、実は中学生くらいの頃に行き着きます。私の二人の祖父がそれぞれ会社を経営していまして、これが後々の「コネクティング・ザ・ドッツ」に繋がってくるんです。
父方の祖父は建築設計事務所を経営する建築家で、その系譜は京都で15代以上続く大工の棟梁の家系に繋がっています。一方、母方の祖父は建築資材の販売会社を経営しており、元々は島根県で石州瓦を作る工場を営んでいた家系でした。建築家の息子と、建築資材販売会社の娘が結婚し、生まれたのが私です。
中学生の頃、二人の祖父の経営者としての姿を見ていて、サラリーマンだった父とは違う、「会社を経営してみるのが面白そうだ、自分で事業をやってみたい」という思いが芽生えるようになりました。進学する時も、経営者になるには経済や商業を学ぶのだろうとぼんやり考え、中央大学商学部経営学科に進みました。
ところが、大学に入って最初のクラスの自己紹介で衝撃を受けました。同級生たちの将来の夢は「公認会計士」「学校の先生」「公務員」。経営者になりたいと言う人は皆無だったんです。
――周囲との温度差を感じたわけですね。そこからどのようにインターネットと出会い、起業に至ったのですか?
本間: 私が大学に入学した1994年は、日本におけるインターネットの商用利用が解禁された直後のタイミングでした。大学の生協にワープロを買いに行ったら、そこでMac(Macintosh)が売っていて、「ワープロにもなるし絵も描ける」と聞いてパソコンの世界にのめり込みました。
その後、サークルの先輩を通じてインターネットの世界を目撃することになります。「ホワイトハウスのページ」や「ルーブル美術館のサイト」を見て、「この中に世界がやってくるのか。ここで情報発信したら世界の人に見てもらえるし、物も売れるんじゃないか」と直感しました。 そこで「起業したい」という思いと「インターネット」が結びつき、1995年頃に友人の前で「俺はインターネットで商売をする」と宣言しました。

最初は経験もお金もありませんから、独学でウェブデザインを学び、他人のウェブサイト制作を請け負うことから始めました。大学3年生の頃には本格的に活動を開始し、大手広告代理店の下請け仕事なども舞い込むようになりました。そして1997年7月、仕事の前受金として受け取った300万円を資本金に、有限会社として法人化を果たしました。これが私の最初の会社、「イエルネット」の誕生です。
――「イエルネット」という社名にはどのような由来があったのですか?
本間: 当時、「インターネット・イエローページ」という用語があって、電話帳のようにサイトを調べられるディレクトリがありました。私は日本人なので、若干自虐的ですが「イエローだな」と思い、インターネットの商売を助けるという意味で「イエロー・インターネット・コマース」という名前を考えました。
しかし、ドメインが長すぎて取得できなかったため、短縮して「Yellnet.com」とし、それが社名となりました。「Yell」には「叫ぶ」という意味もあり、「人に届くのかな」という思いも込めていました。
■ビットバレーの熱狂とバブル崩壊の現実
――法人化後は順調だったのでしょうか。当時は渋谷を中心とした「ビットバレー」のブームもありました。
本間: 法人化初年度の売上は3000万円で、3人で始めたビジネスとしては驚くような滑り出しでした。最初は三軒茶屋のバーの2階にある倉庫のような場所からスタートし、その後、学芸大学のカラオケボックス跡地へ移転しました。実はこのオフィスの一角では、後に株式会社PIM(後にヤフーへ売却)を立ち上げることになるメンバーも活動しており、まさに日本のネットベンチャー黎明期の熱気がそこにありました。
1998年から1999年にかけてビットバレーのムーブメントが起き、メディアにも取り上げられるようになりました。『ニュースステーション』で久米宏氏に紹介されるほど注目を集めました。

そして2000年頃、大きな転機が訪れます。当時、オン・ザ・エッヂ(後のライブドア)を率いていた堀江貴文さんとの再会です。堀江さんとは以前から面識があったのですが、食事の席で彼が「本間さんどうすんの? うちも上場するよ」と言い出し、その翌日には彼らのチームが送り込まれてきて、「じゃあ本間さんも上場しようか」という話が一気に進みました。

トランスコスモスやJAFCOなどから総額3億円の資金を調達し、渋谷・青山エリアの150坪のオフィスに移転、従業員も50人規模に拡大しました。設立から短期間での上場を目指し、すべてが順調に見えました。

――しかし、そこでネットバブルの崩壊が起きるわけですね。
本間: そうです。主幹事証券会社と上場の詰めを行っていた矢先、「最近売上が伸びないですね」という話になり、それがバブル崩壊の予兆ではなく、崩壊そのものでした。
上場延期を決断し、一度様子を見ることにしましたが、二度とチャンスは訪れませんでした。事業環境は悪化し、私は苦渋の決断を迫られました。2002年末、会社の事業を他社(インデックス等)へ譲渡・売却し、会社を清算することを選びました。
会社を畳む際、手元に数千万円の資金が残りました。私はその半分をもらう権利がありましたが、それを一切放棄し、残りの株主の皆様に「すいません、ちょっと減りましたけど」と全てお返しして、終わりにしました。鳥取の実家からは「帰ってきて銀行に入れ」と懇願され、それを振り切って飛び出した東京での起業でしたが、第1章はバブル崩壊という形で幕を閉じました。
■”野球からサッカーへの転向”――ソニーでの「イントレプレナー」としての挑戦
――その後、なぜ再び起業するのではなく、ソニーという大企業への就職を選んだのですか?
本間: 会社を畳んだ後、デジタルハリウッドや孫泰蔵さんなど、様々な方からオファーをいただきました。同じ「ベンチャー村」で再起を図る道もありましたが、私はこう考えました。「野球でスタメン落ちて2軍に行ったりファームに行くぐらいであれば、サッカーに転向した方がいいんじゃないか」と。つまり、競技そのものを変えてしまおうと思ったのです。当時28歳くらいでしたが、全く異なるルールで動くグローバル企業というフィールドなら、新しい道を切り拓けるのではないか、何か面白そうだという直感がありました。
2003年1月1日、当時の出井伸之会長と縁があり、ソニーに入社しました。配属されたのは、出井氏が推進するインターネット事業戦略部門でした。そこで私は、ソニーグループ全体にブログプラットフォームを導入するプロジェクトを主導したり、社内の有志を集めて新しいサービスを作るラボのような活動を行ったりしました。
――ソニー時代の手がけた事業で、特に印象に残っているものは何ですか?
本間: 「eyeVio(アイビオ)」という動画共有サービスの立ち上げです。当時、YouTubeが台頭し始めていましたが、私は「ネット時代の到来においては、ハードウェアよりもネットやコンテンツの力が強くなる。メーカーこそ自前のサービスプラットフォームを持つべきだ」と考えていました。
この「eyeVio」の記者会見には、当時のCEO、ハワード・ストリンガー氏も登壇してくれました。ストリンガー氏からは「君たちのようなチェンジ・エージェントがソニーを変えていくんだ」という手紙をもらうほど、私の社内起業家としての活動を評価していただきました。

■運命を変えた一本の電話と、米国での「再起動」
――その後、アメリカへ渡ることになりますが、そのきっかけは?
本間: 実は、ソフトバンクグループとルパート・マードック氏が手掛けるソーシャルメディア事業の日本法人社長へのオファーがあり、ソニーを辞めようとしていました。
辞意を伝えるつもりで人事担当役員に相談したところ、事態は急展開を迎えました。「ちょっと待ってろ」と言われ、2日後にかかってきた電話の相手はストリンガー会長でした。「You can’t leave.(君は辞めてはいけない)」「What do you want? What do you need? I promise to make it happen.(何がしたい? 何が必要だ? 私が叶えてやるから言ってみろ)」と言われたのです。そこで私は思わずこう答えました。「I want to go to California.(カリフォルニアに行きたい)」。
こうして2008年頃、念願のアメリカ赴任を勝ち取りました。PlayStation Networkの立ち上げメンバーとしてサンフランシスコへ行くことになり、役職は米国法人のバイスプレジデント(VP)。33歳での異例の抜擢でした。
――華々しいアメリカデビューですね。
本間: いえ、現実は残酷でした。現地に到着すると、周囲の視線は冷ややかでした。「本社から来た若造がVP?」「会長のお気に入りらしいな」といった反発を受け、着任早々、サンフランシスコからサンディエゴへ「飛ばされる」ことになったのです。
「お前の話は聞いてる。そこの隅に行ってドキュメント読んでろ」と言われ、仕事を与えられず、オフィスの隅で資料を読むだけの日々が始まりました。家も車も処分して家族を連れてきたアメリカで、「生きる力を失うようなショック」を受けました。
しかし、ここで腐ってはいけないと思い直しました。上司から「英語がダメだ」と言われれば、半年間徹底的にマンツーマンレッスンを受け、英語力を飛躍的に向上させました。また、仕事がなく暇な時間はブログでの発信や情報収集に充てました。
そうして始めたブログがきっかけとなり、日本からシリコンバレーを訪れる若手起業家たちの支援活動をボランティアで開始しました。自分もかつてはスタートアップをやっていたし、アメリカの事情も分かるようになってきた。日米のギャップを埋める役に立ちたいと思ったのです。この活動が評価され、2010年には日経ビジネスの「次代を創る100人」に選出されるまでになりました。
■楽天、そして三木谷浩史氏との出会い
――その後、ソニーから楽天へ移籍されますね。
本間: ソニーで電子書籍事業「Reader」のチームへ異動し、ようやく本来の実力を発揮できるようになっていた頃、楽天の三木谷浩史さんからアプローチを受けました。「三木谷さんが会いたがっている」と言われ、日本出張の際に会いに行くと、その場で「おいで」と言われました。実はソニー時代にも面識はあったのですが、ここで本格的に、電子書籍事業に誘われた形です。 私は「同じ電子書籍事業を違う会社でやるのもどうなのか」と躊躇しましたが、「楽天には巨大なユーザーベースがある。そこにデジタルコンテンツを載せればビジネスチャンスは大きい」という話になり、2012年1月1日、楽天に入社しました。

楽天では執行役員として、電子書籍事業「Kobo」の日本立ち上げを指揮し、その後はグローバルのデジタルコンテンツ戦略や、シリコンバレーでのビジネスデベロップメントを担当しました。三木谷さんとは毎月のようにシリコンバレーで顔を合わせ、近くで仕事をする中で多くのことを学びました。「昨日も夢に見ましたけど、やっぱり今でもその存在が大きくて、尊敬もしてますし大好きなんです」と言えるほど、彼と一緒に仕事ができたことは一生の宝です。










